立派な人でないので教会には行きづらい。(反対に)教会にはいやな人、欠点の目立つ人がいるから行きたくない。
外見は立派に見える人も、内実は罪人です。外見はいやな人ももちろん罪人です。人は外見によらない、みな内心に罪を持った存在なのです。それを外にはうまく隠せる人と表してしまう人の違いです。外見はすましていても、みな内側には強烈なエゴを持っています。それが時々垣間見えますが、それが外に出るのをうまく抑えられる人と、そうできずについ出てしまう人との差です。
高慢であったり、感謝を知らない人であったり、時々は憎しみやねたみにとらわれたり、奥ゆかしさに欠けたり、デリカシーが欠けたり、他者の心の痛みに気付かなかったり、自分の利害や都合に強くとらわれたり・・・教会に来ている人も本質は一般の人と同じです。違うのは、じっくりと話し合えば、それが良くないことだという認識を共にすることができるくらいです。それは究極のところ、聖書の教えに従うことで一致するからです。
しかし多くの場合、話し合いはなるべく先送りして、一般的な聖書の解き明かしや信徒同士の一般的な会話の中で本人が気付いて、直してくれることを待っています。それまでの間、傍らにいる人は我慢して付き合う、あるいは見ているわけです。付き合い(交わり)は、多くは我慢の連続です。そのような中から我慢する側の人も、愛とはどうあるべきかを学んでいるのです。
教会とは、いろいろな人がいて、その人と人との交わりによっても研がれ、聖(きよ)められ、愛において成長する所です。教会は天国ではありません。
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