ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会、峯野龍弘主管牧師のコラム9回目です。
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教会にしろキリスト者各人にしろ、その究極の存在目的は神に栄光を帰すことにある。旧約の時代のダビデも、その生涯と人生の目的が神に栄光を帰すことにあると気づき、その声を大にして民たちにこう勧告した。
「神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。聖名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(詩29・1,2)と。またこうも謳っている。
「主よ、栄光をわれらにではなく・・・ただ、み名にのみ帰してください。」(115・1口語)と。
ましておや、新約の時代に生きる者がどうしてそれ以下の自覚であって良かろうか。それゆえ使徒パウロは、ダビデに勝るとも劣らない強い自覚を持ってこう言った。
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように・・・」(ピリピ1・20)。
何と明快かつ強烈な徹底したパウロの自覚であろう。その意味の背後には誰もが疑う余地もないほどまでに、明白かつ公に主の栄光が自分自身の生き様においても、また死に方においても現されますようにとの強い願望が表白されている。
では何ゆえかくまでに使徒パウロは、自分の存在と人生の目的が主に栄光を帰すことにあると強く自覚させられ、この一点に聖なるこだわりを持ったのであろうか。
その理由を彼はこう記している。
先ず第一に、それは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている(帰属している)」(ロマ11・36)からだ。本来人間によって成り、人間に帰属していたものなど何一つとしてない。万物の創造も、存在もすべては神によった。それなのにすべてが人間自身により、人間によって成ったものの如く思い上がることは、実に人間の傲慢と神への冒涜以外の何ものでもない。
第二に、お互いは実に「聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、・・もはや自分自身のものではない。・・代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現わす」(コリ?6・19〜20)べきである。ここに徹底したパウロのキリスト者としての聖なる帰属意識(聖別意識)があった。
さあお互いも今こそこの聖なる帰属意識を持って、大いに主に栄光を帰そうではないか。
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<峯野龍弘牧師プロフィール>
淀橋教会にて牧会の傍ら、94年ビリー・グラハム東京国際大会実行委員長、日本メディア伝道協議会会長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、東京大聖書展実務委員長等を歴任。 今年5月には、米アズベリー神学校から名誉神学博士号を授与された。
現在、JEA理事長、ウェスレアン・ホーリネス教団委員長、日本ケズィック・コンベンション中央委員長などを務める。国内、海外のキリスト教界のみならず一般社会でも広く講演活動に従事している。