ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会、峯野龍弘主管牧師のコラム8回目です。
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キリスト者であるお互いにとって分かりきったことのようではあるが、改めて今一度「真に信仰的に生きる」とは、どういう意味か反芻してみたい。
先ず第一に、「信仰的」であるということは、何事においても、常に「神を信じ、神を仰ぎ見る」ことである。そこには何一つ例外はない。この場合は別であり、これは例外であると言って、一つでも例外を許すなら、そのところからその人の信仰が瓦解しはじめる。それは極めて危険な「蟻の一穴」である。そもそも神は全能者であられ、かつお互い一人一人をこよなく愛しておられる。このお方が関与せず、ましてや何も知らずにお互いの人生に何かが起こり来ることなど断じてない。すべての物事の背後には、必ずお互いを愛しておられる主の深い御心と最善のご計画がある。それゆえお互いは、どんなに辛く厳しい出来事や困難に遭遇した時にも、この主の深い聖旨を確信して、神を仰ぎ見、微動だにしてはならない。この揺るがず「信じて仰ぎ」続ける心と生き様こそ、真に「信仰的」と呼ぶのである。
第二に、「信仰的」とは、お互いが人生のいつ如何なる場面においても、物事を判断し、行動し、かつ人と交わる際に、必ずそこで「信仰を働かせる」ことである。これは極めて実践的、日常生活的、具体的な事柄であって、決して観念的、抽象的、理論的、更には常識的な判断や処理では終わらない。万事に対して信仰を働かせ、信仰によって判断し、信仰をもって対処するのである。つまりその出来事の背後にあって働かれる神のご存在とそのご支配、すなわち全能の神の力ある御介入と神の愛と恵みによる最善のご処置とを確信し、物事を判断、対処すべきであって、決して自他共に有限な人間の知恵や経験の枠内で判断、処理せず、ましてをやこの世の一般常識の枠内で意思決定しないことである。そこにはもはや信仰が機能していないことになるからである。
そこで第三に、「信仰的」とは、自分の思いや人の判断に支配されず、ただひたすら「神の思い」、「神の判断」つまり「神の聖旨」に堅く立つことである。すなわち「主であったら、果たしてこの場面でどのようなご判断、ご処置をなさっただろうか」と思い巡らし、その結論に堅く立って、万事に対応することである。物事の処理については勿論のこと、特に対人関係において、更には自分自身のことに関してもこうすることこそが、真に「信仰的」に生きると言うことの真意である。おお、是非真に信仰的に生きよう!
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<峯野龍弘牧師プロフィール>
淀橋教会にて牧会の傍ら、94年ビリー・グラハム東京国際大会実行委員長、日本メディア伝道協議会会長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、東京大聖書展実務委員長等を歴任。 今年5月には、米アズベリー神学校から名誉神学博士号を授与された。
現在、JEA理事長、ウェスレアン・ホーリネス教団委員長、日本ケズィック・コンベンション中央委員長などを務める。国内、海外のキリスト教界のみならず一般社会でも広く講演活動に従事している。