群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。・・・その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして、彼はあわを吹き、・・・からだをこわばらせてしまいます。それで、お弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」・・・その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」イエスは汚れた霊をしかって言われた。「・・・この子から出て行きなさい。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。・・・(マルコ9:17〜26)
今日の聖書は、イエスが山から弟子たちのもとに戻って来られた時の物語です。弟子たちが、一般の人たちや律法学者、パリサイ人と大声で議論していたのです。何かカリカリした不穏な空気が漂っていました。「一体、何を議論しているのか」とイエスが聞かれると、一人の父親が、自分の子どもを連れて来て、「息子は小さい時から悪霊に取りつかれ、発作を起こして、火の中や水の中でも倒れ、大変危険なのですが何をしても悪霊の働きから逃げ出せません。『先生のもとに連れてくれば、きっと癒される』と思い、お弟子たちにお願いしましたが、癒すことができませんでした。」と言うのです。しかし、イエスが祈られると、この少年を捕らえていた悪霊はすぐに追い出され、癒されたのでした。
この物語は、ただ単に、イエスの素晴らしい癒しの御業を伝えるためだけに記されたのではありません。イエスと弟子たちや少年の父親との会話のやり取りの中で、イエスが私たちに伝えようとされた大切な真理が示されています。それは、できるという信仰なのか、できない信仰のままで終わるのか、ということを私たちに問いかけているのです。三つのことを学びたいのです。
1.できないと言うのは不信仰と直結する
少年の父親が、「お弟子たちに悪霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、できませんでした。」と言うと、イエスは即座に「ああ、不信仰な世だ。」と返されました。癒すことができなかった弟子たちのことを、不信仰だと言われたのです。
私たちには、自分が何かをできないことを、「弱い私だからしょうがない。できなくてかまわない。」と、どこかで合理化し、あたかも神が認められたかのように理由づけていないでしょうか。確かに、弱い私たちをイエスは愛し受け入れて下さいますが、できないまま逃げようとすることは不信仰だとおっしゃいます。思い切ってイエスの御言葉を心に受け入れ、もしかすると、できないことは不信仰なのかもしれない、気づかないうちに私は不信仰の奴隷になっているのではないか、できないままで当たり前だ、こんなもんだと言い訳をし、このような状態でいるのは、私の不信仰のためではないのか、ともう一度自分に問い直してみようではありませんか。
2.信じる者にはどんなことでもできる
神を信じれば、人の目には不可能と思えることさえ実現できるという、生きて働く信仰を、イエスは自らの祈りによって証明されました。イエスが祈られ、「悪霊よ、出て行け。」と言われた瞬間、この悪霊は少年をひきつけさせて出て行きました。そして、イエスはもう二度と悪霊が入らないことを保証されました。一瞬、死んだように見えたその少年は、イエスが手を取って引き起こされると、正気になり立ち上がったのです。
主イエスには、不可能を可能にする力があります。そして、神と接している私たちには、神からの命や力が流れ込んでいることを知りましょう。だから、イエスは、「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と断言されたのです。
3.信仰を働かせるための訓練をする
弟子たちは後で、「なぜ私たちにはできなかったのですか。」とイエスにこっそり聞きました。イエスは「この種のものは、祈りによらなければ、追い出せるものではありません。」と明白に答えられました。同じ物語が記されているマタイ17章では、「祈りと断食によらなければ…」とあります。頭で考えるだけの信仰ではなくて、祈りや断食で本気で神に求めてみることです。ちゃんと行動の伴った信仰で、信仰を働かせてみましょう。自分自身の行動を通して自らの信仰を高め、深めていかなければ、どんな霊的な力も身につきません。
例えば、誰でも、初めから自転車に乗れる訳ではありませんが、練習していると、ある日乗れるようになります。水泳も、試してみてコツがつかめて泳げるようになるのです。何か特殊な能力を身につけなければいけないのではなくて、それ位の能力は私たちに普通に与えられているのです。「できない。できない。」とチャレンジしないでいると、本当にできないままで終わってしまいます。私たちは、できないままで終わる者から、できる信仰者へと成長していこうではありませんか。できないと思っていたことができるようになることが、信仰の醍醐味であることを思い出しましょう。
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万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。