4.あらゆる問題を解決する秘訣
神を見出してからは、数千年にわたって書き継がれてきた、この古い書物、聖書が、科学万能・物質万能の現代社会にもそのまま通用し、私個人の日常の生活にも当てはまることを、体験するようになりました。そして、私が長年求めてきた「あらゆる問題を解決する秘訣」を、この聖書に発見することができたのです。
「あらゆる問題を解決する秘訣」とはどんなことでしょうか。そんな秘訣が本当にあるのでしょうか。私が発見することのできた「あらゆる問題を解決する秘訣」とは、「ひとつ一つの問題の解決を神に求める」ということです。私たちは、問題の解決を、人や金や組織や政冶や法律や社会制度に求めます。しかしそうではなく、問題の解決を、まず第一に神に求めていくのです。聖書によれば、神は「天の父」として宇宙・万物を創造し支配しておられる全知・全能のお方です。もし聖書に書かれていることが真実であるならば、そのような偉大な神に解決できないような問題は何一つないはずです。イエス・キリストはこう言っています。
よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものは何でも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたは、わたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば与えられるであろう。そしてあなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。(ヨハネ16:23〜24)
イエス・キリストは、私たちが「天の父」、すなわち全知・全能の神に求めるものは何でも与えられるであろう、と宣言しています。もしこれが本当なら、私のように多くの問題や揉め事に取り組んでいる者にとっては、実にすばらしい朗報です。そこで、解決困難な問題にぶつかると、その都度神に解決を求めてみることにしました。
「神さま、どうかあなたの全能の力によってこの問題を解決してください」と神に祈り求めるわけです。そうすると非常にありがたいことに、解決不可能と思われた問題が次々に解決されていくことを、体験するようになりました。この点に関して、忘れることのできない体験がありますのでお話しします。
ある依頼者が外国で事業をしていたのですが、知らない間に詐欺罪で訴えられ、本人欠席のまま懲役3年の有罪判決が確定してしまいました。本人は無罪を確信していました。私はこの事件の解決を依頼されて、有罪判決を覆がえすために、依頼者と一緒にその国へ行くことになりました。私はその国の言葉は話せませんし、その国の法律も全く知りません。そこで、現地の弁護士の助けを借りるために、依頼者について行ったわけです。
ところが、その国の空港に到着し、パスポートの検査を済ますや否や、警官がやってきて、私の目の前で依頼者を逮捕して連れて行ってしまいました。パスポート検査の際に照合される犯罪者名薄に彼の名前が載っていたのです。依頼者は「助けてくれ!」と叫んでいましたが、私にはどうすることもできませんでした。下手をすれば彼はそのまま監獄に入れられて、3年間出てこれないかも知れません。私自身も共犯者と疑われて逮捕される恐れもありました。しかし、そのようなどうしようもなくなった時、先ほどのヨハネの福音書のイエス・キリストの言葉を想い出し、心に落ち着きを取り戻すことができました。そして空港で唯一人残された私は、祈り始めました。
「天のお父さま、どうかあなたの力によって私の依頼者を救い出してください。彼は無実を証明するためにこの国へ来たのに警察に逮捕されてしまいました。どうか警察の手から彼を救い出して無罪を証明させてください」
しばらく祈り続けていたところ、突然依頼者が釈放されて空港警察から出てきました。一体何が起きたのかと聞いてみると、急に「もう行ってよい」と言われただけで、彼にもよくわからないようでした。しかし、私は神が祈りに答えてくださったことを知っていましたから、心から神に感謝しました。
それから現地の弁護士に弁護を頼んで、一緒に法廷に出ることになりました。日本ではすでに確定した有罪判決を再審で覆すことは、非常に難しいことです。その国は日本以上に官僚的な国ですから、それはもっと困難なことです。日本では「疑わしきは罰せず」と言いまして、有罪の決め手となる明確な証拠がなければ無罪となるのですが、その国では逆に「疑わしきは罰する」と言いまして、被疑者が無罪を証明しなければ有罪にされてしまうのです。さらに悪いことに、検事側は私の依頼者に非常に不利な証拠や証人を十分に準備していました。私は弁護士としてはなすべきことがなかったので、裁判を傍聴している間中、法廷で祈りました。
「主よ、どうかこの人の無罪を証明してください。そして、この誤った有罪判決を覆して彼を釈放してください」
帰国後もクリスチャンの友人たちと共に引き続いて祈りました。数カ月後、判決が下りました。無罪判決でした。依頼者の喜びようといったら天にまで跳び上がるようでした。彼にとっては有罪判決の存在が大変な苦悩であったわけです。私にとってもこの事件の解決は大きな喜びでした。しかし、それよりもなお大きな喜びは、神は生きておられ、私たちの祈りに対してこのように現実的に答えてくださるお方である、ということを体験できたことでした。この出来事をとおして、私の神に対する信頼はますます深まって行きました。
5.問題解決のボタン
それからというものは、裁判で法廷に立つときには、必ず聖書を持って行くようになりました。そして「天の父よ、どうかすべての関係者の益になるように、この事件を公正に解決してください」と祈りつつ弁論を進めます。裁判官も弁護士も検事も人間ですから、常に間違いを犯す危険があります。ですから、全知・全能の神に正しい解決がなされるよう祈り求めるのです。このようにして、これまでいろいろな事件が解決されていくことを体験してきました。「問題が正しく解決されるように神に祈り求める」という方法は、訴訟事件だけに限らず、私が担当している全ての仕事について用いています。
仕事の関係で、種ケ島の人工衛星ロケット打上げ基地を、何度か見学させてもらいました。ロケット発射の管制室はロケット発射台の数百メートル後方にある頑丈な地下壕の中にあります。ある時、管制室に入って、ロケット発射ボタンに触れさせてもらいました。ロケットに関する技術については全くの素人の私ですが、一つのボタンを押すだけでロケットを打ち上げることができるのだと考えると、心が躍動しました。
巨大な人工衛星打ち上げロケットは、発射ボタンを押すことによって打上げることができます。それと全く同じように、あらゆる問題を解決するためのボタンがあります。そのボタンとは、「祈り」です。全知・全能の神は、私たちの「祈り」に答えて、あらゆる問題を解決してくださるお方です。この場合、「ボタンを押す」とは、「問題の解決を神に祈り求める」ことです。人間の親でさえ、子どもが求めるものは喜んで与えるものですが、神は私たちの「天の父」なのですから、その子どもである私たちが祈り求めるものは、それが本当に必要なものであるならば、惜し気もなく何でも与えてくださるのです。
人工衛星の打ち上げ発射ボタンの場合には、それを押すことができる権限を持っているのは、宇宙開発事業団の理事長だけです。これに対して、「祈り」のボタンは、老若男女を問わず誰でも、これを押すことができます。神に単純に信頼して、祈り求めればよいのです。私たちは、自分の力、他人の力、金の力、組織の力などによって問題の解決を図ろうとして、窮地に陥ってしまうことがよくあります。その理由は、自分や他人や金や組織の力には限界があるからです。けれども、神に解決を祈り求めることによって、その窮地から脱出することができます。なぜなら、全宇宙・万物の創造者、支配者であられる全能の神の力と知恵には、限界はないからです。
ある問題は、神に祈り求めることによって、驚くほど速かに解決されます。しかし、問題によっては、解決されるまで長い時間がかかる場合もあります。それは、その問題の解決には時間がかかる方が私たちの本当の益になるからです。その場合には、解決されるまで失望せずに神を信頼して祈りつづけていけばよいのです。問題が困難であればあるほど、熱心な忍耐強い祈りが必要とされます。また、問題によっては、願ったとおりには解決されない場合もあります。それは、願ったことが神の目から見ると、適当でないことだからです。これも祈っているうちに神からそれを示され、願いそのものが修正されて、もっとよい解決がなされていきます。これが、神があらゆる問題を解決してくださる聖書の公式です。
6.知恵を願い求める
この複雑な現代の社会で賢明に生活し、仕事をしていくためには、大変な知恵が必要です。私は生きていくために、自分に知恵が不足していることをいつも痛感しています。しかし、知恵も神に求めることができることを知りました。新約聖書のヤコブの手紙1章5節には、次のように書かれています。
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人はとがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。ただ、疑わないで信仰を持って願い求めなさい。
私は知恵に不足していましたので、「この問題を解決するために、どうか適切な知恵を与えてください」と神に祈り求めるようになりました。日々起きる問題はますます難しくなってきているように思います。しかし、全知・全能の神はいつでも私の信頼に答えてくださり、私が小さな心で期待したことをはるかに越えて知恵を授けてきてくださいました。
神の導きを信頼することによって、新聞や雑誌や法律書を以前のように読みあさることがなくなりました。テレビは我が家にはありません。ラジオもほとんど聞きません。その代わり、できる限り多くの時間、聖書を読んで神に祈るようになりました。けれども、そのために困ったことや失敗したことは、一度もありません。かえって、直面している問題の調査・検討に精神と労力を集中することができるようになりました。そうすると、問題解決に必要な知識や情報は、その都度、十分に与えられるのです。
ふり返ってみると、新聞、雑誌、法律書の濫読やテレビ・ラジオの習慣的視聴を止めることによって、私は、雑多な情報や知識にふり回されずに、物事の本質を見抜くことができるようになってきたと思います。例えば、あらゆる法律や道徳の基本理念は、聖書に述べられている「モーセの十戒」に集約されていることを発見しました。この「モーセの十戒」は、「心を尽くして神を愛すること」と、「自分を愛するように隣人を愛すること」に言いつくされています。この「神を愛し、人を愛する」という聖書の根本的理念に立脚することによって、全ての物事を、その時と場合に応じて、単純明快に判断することができるようになってきたように思います。
情報や知識がますます過剰に氾濫し、仕事が複雑になり、またその規模が大きくなり、スピードが速まっている中にあって、神の導きと助けを信頼することによって、私自身の生活はますます単純になり、自由かつ平安に生きられるようになってきたことは、非常に大きな幸いです。
7.重荷をゆだねる
神を信じる以前の私は、何かを神に求めるということはありませんでした。神を知らないわけですから当然のことです。本当は自分が「弱い者」であるのに、「神に助けを求めるなんて、弱い者のすることだ」と思って軽蔑していました。頼りになるのは自分だけだと信じ込んで、自分にムチ打って、なんとかして「強い者」になり、自分の力と自分の努力によって生きようとしてきました。そして、大学を出て、運良く弁護士の資格を取得して、一時的には「強い者」になったと錯覚していたのです。
けれども、現実的にはさまざまな重荷を自分一人で背負って生きなければならないため、大した希望も喜びもない、不自由で暗い人生を、歩かなければなりませんでした。結局、数々の体験をとおして、自分がいかに「弱い者」であるかということを、いやというほど認めざるを得なくなったのです。そのような時に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というイエス・キリストの言葉が、心に響いてきました。
その言葉を信じて、イエス・キリストに私の全ての重荷を委ねることにしました。そうしたら、これまで自分で苦労して背負っていた重荷から精神的に解放されてきました。生活が自由になり、非常に楽しくなってきました。歯を食いしばって頑張って自分の力で生きるストレスから、解放されたのです。次第に、恐れや不安や思い煩いが少なくなってきました。神に解決を祈り求めつつ、直面する問題に全力をもって、しかも気を楽にして取り組めるようになったからです。
仕事の責任はますます重くなってきますが、それはもはや重荷ではなく、楽しみに変ってきました。これまでもっていた「失敗したら大変だ」という恐れがなくなり、初めから「神さまがきっと解決してくださる」と楽天的に神の助けを信頼して取り組むことができます。願いごとを神に求めると神はそれを実現してくださいますから、心に感謝と喜びが満ちあふれてきます。重荷を神に委ねて、いつも力強い神の愛と喜びと平安に支えられて生きられることは、本当にすばらしいことです。
8.問題の根本原因
さまざまな問題の解決に取り組みながら、なぜ世の中にはこんなに多くの難しい問題が生じるのかを考えてきました。そして、全ての問題の根本原因は愛の欠如にあることに気がつきました。少年の非行、夫婦の問題、労使紛争、公害、経済問題、戦争などの原因は、隣人への愛の欠如にあると思います。人々がお互いに心から愛し合うことができないから、困難な問題が発生するのです。私たちが心から愛し合うことができれば、世の中にこれほど多くの悲惨な問題があるはずがありません。しかし、お互いに心から愛しあうことほど難しいことはありません。
では、どうしたらお互いにもっと愛し合うことができるのでしょうか。それは、私たちの心の内には利己的な小さな愛しかないことを謙虚に認めて、限りなく大きな愛の持主である神から愛をいただいて、その愛をもって人々を愛すること、であると思います。私たちが互いに心から愛し合えない原因は、つきることのない愛の源泉である神から私たちが離れてしまっていることにあります。
ですから、問題に直面したときには、その原因が愛の欠如にあることを悟り、神の愛が私たちや人々の心を満たしてくださるように願いつつ、問題の解決を神に祈り求めていけばよいのです。そうすると、まず私たちの心に神の平安が与えられます。どのような混乱や激動の嵐の状況の中にあっても、私たちの心はちょうど「台風の目」に置かれているように静かに、暖かく輝く太陽をあおぐことができます。次に、事態にどのように対処したらよいかについてのインスピレーションが与えられます。それと同時に、神が状況そのものにも働きかけて、正しい方向へと導いてくださっていることを体験します。このようにして、あらゆる問題が解決されていくのです。
次のような事件がありました。私の友人が、不動産取引に関する軽微なミスにつけこまれて、地上げ屋から脅され、数カ月間も執拗に数千万円に及ぶ法外な賠償要求を迫られ、もう一歩で裁判になるという所まで追い詰められてしまいました。私は頼まれて、この問題の解決を神に祈ることにしました。
友人と地上げ屋との最後の交渉が始まる前に、私は自分の事務所でその問題の解決のために祈っていました。すると突然、「あなたがその交渉に立ち会って、あなたの友を助けなさい」という神からの導きを感じました。私は驚いて、「いや神さま、このような事件は私の専門外ですし、私は今自分の仕事で忙しく、とてもそんな余裕はありません」と心で拒絶反応を起こしました。ところが、「あなたは、友人がこんなに困っているのに、友のために数時間を割くことを惜しんでいるのか」と、諭されたような気がしました。しばらく祈っているうちに、忙しいのは事実でしたがそれは口実で、実はその暴力的地上げ屋と面と向って話したり、その後もかかわりができたりすることを、恐れていたことがわかりました。
そこで私は、友人に対する愛がなかったことを反省して、神がこの事件に直接介入して解決してくださるように祈りつつ、思い切って、タクシーを飛ばして交渉現場に駆けつけました。友人と共に地上げ屋と一時間位できるだけ穏やかに話し合いましたが、その場では問題は解決しませんでした。地上げ屋は、「払わないなら、裁判で結着をつけてやる」と、荒々しく捨てぜりふを残して去って行きました。けれども、その後は、それまで毎日のようにあった脅迫電話も一本もかからず、裁判にもなりませんでした。このように神は、私たちに愛と知恵と力を与え、その見えない御手をもって私たちを導いて、問題を解決してくださるお方なのです。
私が弁護士になった主な動機は、あくまでも自分が自由に気楽に生きるためでしたから、利己的なものでした。しかし、私が神に愛されていることに目覚めてからは、弁護士の本来の使命である「人権の擁護と社会正義の実現」にも、ようやく目覚めることができました。また、社会問題や国際問題に対しても、それまでの私は、自分には直接関係ないことだとして、常に傍観者、批判者でしかありませんでした。けれども次第にささやかながらも、困っている人々の救いのための奉仕や、東南アジア・アフリカの難民・飢餓対策その他の問題についても、私自身の問題として具体的に取り組むことができるようになりました。
少しずつではありますが、他の人の不安、悩み、苦しみを、自分の心の痛みとして感じるようになってきました。同時に、私たちの痛みのすべてを、神がご自身の痛みとして日々受けておられるのだ、ということが理解できるようになりました。子どもが事故にあったり、病気で苦しんでいれば、その親は子ども以上に苦しみを体験します。それと同じように、私たちの全ての痛みが取り除かれるまで、神ご自身も痛み、共に苦しんでくださっているのです。神の愛は何と深く大きいのでしょうか。また、他の人が苦しみや悲しみから解放されて喜ぶとき、私もそれを自分のことのように喜べるようになりました。神ご自身が誰よりもそれを喜んでおられると思います。(続く)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。