2001年5月21、22日にかけて、中田重治宣教100年記念大会が東京新宿のウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会をメイン会場に開催されました。中田没後60余年を経て、旧ホーリネスの分離分裂の恩讐を克己して約10教派・団体に分かれていたものが一致して開催に漕ぎ着けたのです。
記念礼拝の挨拶に立った中田監督の次女・辻京の夫で、迫害で青森刑務所で殉教した辻啓蔵牧師の次男・辻近氏はこう述べています。「重治には欠陥もありました。それを後世の人が批判するのはたやすいことでございます。しかしながら私たちは、中田重治の残した賜物の中に、人間の限界を超越した主の御業を見出して、これに学び、伝道の糧として生かすべきであろうと思うのでございます」。
同氏の兄の日本基督教団牧師、故・辻宣道氏は、実父の遺骸を中学生の時に、リヤカーで引き取りに行った凄惨な体験をしています。彼は晩年、日本基督教団の総会議長として、戦前の日本基督教団が旧ホーリネスへの国家弾圧の一翼を国体に妥協して協力したことを、正式に文書で関係者、関係団体へ謝罪文として送付しました。
中田重治監督の孫に当たる同氏が、戦前の日本の教会の暗部の一つであった、大東亜戦争遂行のために国策としてプロテスタントの多くの教派を日本基督教団へ統合し、同じ教団のホーリネス系の教会や教職の艱難を座して見過ごしたという事実を、いわば清算したのでした。
その報告を私も、謝罪文が届いた当時の基督聖協団の年次総会で聞いて、心から神に感謝した記憶があります。日本の、特に福音派やペンテコステ・カリスマ派の多くは、戦後の宣教で形成されたものがかなりの比重を占めるようになってきましたので、大正や昭和のリバイバルや昭和のホーリネス弾圧と言っても、分からない方々がほとんどではないかと思います。実際、我々ホーリネス系でありましても、リバイバルを体験した世代が次々に帰天されて、天は賑やかになりましても地上は寂しくなりました。
前述の故・辻啓蔵氏の弾圧に関連して、日本のキリスト教弾圧の歴史に今回は少し触れてみます。戦国時代末期に、ヨーロッパから主に、イエズス会とフランシスコ会の宣教師が日本に渡来して、北は東北までキリスト教を伝播させました。当時の日本の人口は約1000万人強とされています。その中から人口の7・5%に当たる75万人のキリシタン人口があったと日本からバチカンへ報告がなされています。
しかし、島原の乱(1673年)に懲りた徳川幕府は結局、豊臣秀吉のキリシタン弾圧を踏襲して、禁教令を出します。一説によると、明治5年(1872年)にキリシタン禁令の高札が明治政府令で撤去されるまでの間に、20数万人がキリシタンと断定されたり、嫌疑を掛けられたりして殉教したとされています。まさに、ローマ帝国の迫害も顔負けの、ものすごい強権弾圧で容赦のないものでした。それまでは戸籍や住民票に相当するものは、全国津々浦々の寺が一括管理していましたが、ようやく同年にその所管が市町村役場に移管して、告発が止んだという歴史があります。
殉教者の数では比較になりませんが、昭和のホーリネス弾圧も凄惨を極めたものでした。大正14年(1925年)に主に共産主義者取り締まりを目的とした治安維持法が発令されました。宗教団体法が続いて昭和15年に施行されて、キリスト教会の教理・教義も国家が干渉して改廃できるという法律の枠に入れられました。
そうして、当時の検察と特別高等警察は、じわりとホーリネス弾圧に向けて動き出したのです。発行物の調査、各種集会への刑事の内偵調査、幹部への尾行と言動調査内偵、前述の宗教団体法の第7条に当たる「国体否定」の嫌疑に関する広範な調査内偵等、かなりの人員と経費、時間をかけて、特に教職の検挙と教会解散に向けて動き出したのです。
私は個人的に、将来日本に大リバイバルが来た後は十分注意しなければならないのではないかと考えます。これだけ欧米の影響を受け、民主化した昨今の我が国です。しかし当時も、当初は神道系の大本教大弾圧を昭和10年に断行して、綾部市に本部があった同教団の聖殿や教団施設のほとんどをダイナマイトで爆破してしまいました。今のPL教団等の前身です。その少し後で、ホーリネスの弾圧です。
終戦後に弾圧された教職が、自身の裁判記録や起訴状、検察などの取り調べ調書の開示を法務省に要請したところ、戦中の米国軍の空爆で、旧内務省等、ほとんどの資料が消失して開示できないとの回答であったということです。正式な弾圧の書類の記録は分からないということだと聞いたことがあります。
昭和17年6月26日に、ホーリネス三教派(日本基督教団第六部・日本聖教会、日本基督教団第九部・きよめ教会、東洋宣教会きよめ教会)の教職が全国で一斉に検挙されました。96名です。続いて、昭和18年4月まで、台湾や中国、満州国などで第二次検挙が実施されて、合計133名の教職が検挙されて過酷な弾圧が断行されました。教会は解散。検挙されなかった教職も、徴兵されて外地の最前線に送り込まれました。結局、起訴された者が75名、獄死等が7名に上りました。起訴猶予や不起訴者も過酷な取り調べで、そのほとんどが体罰などで健康に甚大な被害を受けました。
中田重治監督も次女の夫である辻氏を殉教で失いました。日本基督教団総会議長であった、故・辻宣道氏は、反国体思想者という起訴理由で父を失いました。弾圧を受けた旧・ホーリネスの教職・信徒は世間の冷視を受け、同じ教団としての当時の日本基督教団からはほとんど助けの手が伸べられず距離を置かれ、いわば差別待遇を余儀なくされました。日本基督教団の辻総会議長名の謝罪文は、数十年を経て初めてのものでしたが、中田重治監督の孫が面目を躍如してくれたと、弾圧被害者の家族の声を聞き、私は複雑な思いにかられ、時が解決することもあることを覚えました。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。