イエス様が話されたたとえの中で最もよく知られている、放蕩息子の話をご紹介しましょう。
2人の息子を持つ裕福な父親がいたのです。息子たちは、何不自由なく育ちました。ところが弟は、父と共にいることを窮屈に感じるようになり、自分で自分の道を自由に歩いてみたいと思うのです。そこで父親に財産分与を要求して、それをもって父の家を離れ、自由な別天地を目指して遠くの国へと旅立ったというわけです。息子は自由を獲得しました。これからは父親の指図を受けることなく、自分で好き放題ができるのです。
中国の思想家、梁啓超という人の言葉に「もし真の自由を求めようとするのであるなら、心中の奴隷をとりのけることから始めなければならない」とあります。この弟息子は父親から自由を獲得しましたが、その自由は本当の自由ではなく、間違った自由でしかありませんでした。彼の求めた自由は自分本位であって、したい放題を生きるに過ぎないのです。このたとえ話は、それを物語るものです。
彼は、父からもらった財産をばらまいて多くの友達をつくり、肉の欲望を思う存分楽しむことができました。しかしそれは、はかない自由と楽しみでしかありませんでした。自由の別天地と思っていたその国に不穏な空気が吹きはじめ、やがてその国に飢饉が起こり、彼の生活は行き詰ってしまったのです。このたとえには、「彼は豚の食べるいなご豆を食べて腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はいなかった」とあります。ことわざに、「自由を求めて自由を失う」「楽しみを追う者は楽しみに殺される」とありますが、息子はその道をひた走ったのです。
しかしこのたとえには、もう一つ幸いな面が語られています。それは、放蕩生活から自分のおろかさに気づき、父親のもとへ帰ろうという志です。キリスト教の偉大な教父と言われている人に聖アウグスチヌスという人があり、彼の生活もこの息子のように乱れたものでした。母モニカは日ごと夜ごと涙を流して祈り、人間としてあるべき道に立ち返ることを祈り、その甲斐あって悔い改め、偉大な教会の指導者になり得たのです。彼の著書、ざんげ録の中で、「我々は神の御手によって創造された。それ故、神のもとに帰るまでは、真の平安は得られない」とあります。
イエス様は、この息子が深い反省の中に心を沈めた時のことを「本心に立ち返った」とおっしゃいました。父親のもとへ立ち返った息子は、「お父さん。私は天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました」と告白しています。父はこの息子をしっかりだきしめ、喜び迎え入れたのです。父なる神とはそのようなお方なのです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。