世界の大発明王として知られるエジソンは8歳で小学校に入りましたが成績が悪く、先生にもてあまされ3カ月で退学したと言われています。聞くところによると、算数で「1+1=2」がどうしても解からない。先生は困り果てて母親に「こんな子は教えられない」と匙を投げてしまいました。エジソンの母親は「では、私が教えましょう」と言って引き取り、立派に育て上げたのでした。
イエス様の十二弟子の一人トマスという人物も似たところがあり、物事に疑い深く、悲観的なところがありました。ヨハネの福音書には、そういう人物像が浮かび上がってきます。
イエスに対する反対が強く、その一行がベタニヤへ退いた二日目、主は「もう一度ユダヤへ行こう」と言われました。弟子らは驚き、「あなたを石で打ち殺そうとしたのに・・・」と身を震わせました。しかし、イエスの決意が堅くあるのを見たトマスは「私たちも行って主と一緒に死のう・・・」(ヨハネ11:16)と申しています。これは、潔い勇気ある決断と言うよりも、懐疑的な人にありがちな悲観的で悲壮な決意と言うべきか、もっと言えば投げやりな、やけくそ発言とも取れるような言葉です。
また、主が「あなた方のために場所を備えに行く」(ヨハネ14:2)と言われた時にトマスは、「主よ、どこへいらっしゃるのか私たちには分かりません。どうしてその道が・・・」と申し、何となくとげとげしい表現を感じさせます。そのトマスの尻馬に乗ったのかピリポは「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言い、トマスの暗く悲観的な態度に感化されたかと思われます。
さらに、ヨハネの福音書を読み進むと、懐疑的トマスの態度がいよいよ濃厚となります。それは主がよみがえられた日の夕方のことでした。弟子たちは家の戸を閉じ、迫害者の手が及びはしないか戦々恐々としておりました。そこへ、復活の主が突如入って来られ、「平安があなた方にあるように」と祝福の言葉を掛けられ、彼らの恐怖と絶望は吹き飛び、平安と喜びに変わったのでした。しかし、残念ながらトマスの姿はありません。彼は、疑いの暗雲の中を独りさまよい孤立していたのかも知れません。
ところがトマスは復活の主が来られ、他の弟子らを祝福されていることも知らずに皆のところへ帰ってきます。それは主がつい先ほど彼らを祝福して出て行かれたばかりで、この二人はすれ違っており、悲嘆しきったトマスはそのすれ違いにも気付かなかったのです。部屋に入ると皆の顔は何故か喜びに輝き、トマスを戸惑わせます。失望、落胆して入ってきたトマスに向かって彼らは喜びに満ち溢れて、「主は生きておられたぞ!!」と叫びます。しかし、トマスはそれを受け入れることができません。公然と居直った者の如く、彼らの証言を拒み、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ・・・私は決して信じない」(ヨハネ20:25)と言い切るのです。トマスとはこのような人物でありました。
「決して信じない」と言い切っているところから考えて見ると、懐疑的、悲観的立場に立つ人は消極的で何もできないかと言うと、そうではなく、その立場を固持し、ダメなものはダメだと好戦的な態度に出る能力を発揮すると言えるかも知れません。したがって、このトマスを不信仰な役立たずと決め付けてしまうのでなく、トマスの「決して信じない」と言い張るその真剣さを認めてあげるということが必要であり、復活の主はそういうトマスを忍耐をもってねんごろに取り扱われたことも見逃せないところではありませんか。
確かにそうです。主イエスはトマスを不信仰な悪い奴としては見ておられません。トマスは懐疑家とまで言われるほどの人物でした。しかし、不真面目でいい加減な人物ではなかったのです。世には確かめもせず、解かってもいないのに解かったと解かったふりをし、簡単に妥協してしまい、中途半端な生き方をする人々があります。しかし、トマスはそんないい加減な態度では生きたくなかったのです。
主イエスは、そんなトマスをお見捨てにはなりません。すぐに主は再び、今度はトマスも皆とともにいる中に来て下さり、その御体の傷を示し、脇腹を見せて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。主イエスはここで一つの大切なことをトマスに教えられたのです。それは、見て触って確かめることも大切だが、それ以上に「信」を働かせないなら、主が何百回現われて下さっても、この両者の霊的生命の関係は成立しない、ということでした。このことに気付いたトマスは「私の主、私の神よ」と信仰を告白するに至ったのでした。
しかし、最後に一言。重要な教えがあります。素晴らしい信仰の告白に至ったトマスに対し、主イエスは言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」(ヨハネ20:29)。
世に幸いな人と言えば、イエスの母マリヤに勝る幸いな人はいないと言えましょう。イエスの兄弟姉妹たち、またその弟子たちは幸いでした。コリント人への手紙第一15章には500人以上の人々が主の復活された姿を目撃したとあり、この人々も幸いでした。
しかし、主イエスは「見ないのに信じる者は幸いである」と言われるのです。私たちは、マリヤや弟子らに勝って幸いな者たちであり得るのです。なぜなら私たちも復活されたイエス様を「主」として受け入れ、その証し人とされているからです。それはペンテコステの日に臨まれた聖霊の働きによるもので、聖書はこのように証明しているのです。「・・・聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント12:3)と。死人の中からよみがえり、今も生きていまし、世界を裁き、祝福され、永遠のいのちの希望に生かしていて下さる救い主イエス・キリストの証し人として、疑い惑うことなく生きて信仰の証しを立てて参りたいものであります。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。