「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(ヨハネ15:4)
この聖書箇所は、ぶどうの木と農夫をイエス様と父なる神にたとえ、枝を私たちにたとえています。ここで主が言われる「わたしにとどまりなさい」とはどういうことでしょうか。
1.神は御子を愛されている
9節には、父なる神が御子を愛されていることが書かれています。世の常として、母の我が子に対しての愛は語られて飽くことを得ませんが、同様に、父の我が子に対しての愛も決して劣るものではありません。愛し、守り、慈しんでくれる方の懐の中にあることは、実に幸いなことです。ですから「わたしの愛の中にとどまりなさい」と主は言われるのです。
神は、私たちが、慈しんでくださるイエス様の愛の中にとどまることを望んでおられます。
2.わたしのことばがあなたがたにとどまる(ヨハネ15:7)
ことばが私たちにとどまるとはどういうことでしょうか。18世紀のイギリスの大リバイバリストのジョン・ウェスレーの体験から述べてみます。
彼は、オックスフォード卒業後、アメリカのジョージア州へ宣教師として意気揚々と出掛けました。しかし、ソフィーという若い女性との恋愛事件で訴訟まで起こされ、35歳のウェスレーは1738年に英国に帰ります。彼は死が怖くて「私の信仰は、天気の良い夏の日々のためのものだった」と告白しています。彼のアメリカでの働きは、人並み以上の力強い説教者でした。問題があったのは確かですが、刑に罰せられた訳でもありませんでした。
帰国して3カ月後の5月21日の夜に、英国国教会のロンドンのオールダズゲイト街で信徒祈祷会が開かれていました。この時、彼は気が乗らなかったのですが出席していました。その集まりで、ルターの名著作「ローマ人への手紙講解」の序文が朗読されていました。ルターは、みことばを通して信仰体験が与えられたことが読まれた時、ウェスレーの心が不思議に暖まって「私はキリストに、ただキリストのみに信頼した」と後に告白しています。奇しくもルターと同じローマ人への手紙からウェスレーは信仰の確信に導かれ、ルターと同様にそのみことばからの確信は、生涯変化しませんでした。
ウェスレーはその後の彼の説教を通して、他の人々の中にも彼と同じ信仰体験をする魂が起こされるのを発見し、彼自身の経験が、漸進的に霊的に成長していったのでした。主のみことばが私たちの内に信仰の確信としてとどまる時、修養鍛錬などに依らない、魂の平安が与えられるのです。
3.主にとどまると父が刈り込みをされる(ヨハネ15:2)
神は信仰の訓練をなさる方です。
現在の東北の人々の生活は、何ら首都圏と変わりません。しかし、厳しい気候風土があり、特に冬の、春の訪れを待つ間は忍耐が必要です。どんなに気が急いでも季節が巡らなければ春は来ません。決して静観ではなく、春という時を期待して待つのです。教会の南側の花壇で、春に咲く花の中では水仙が1月の半ば頃から芽を出しています。雪や寒い北風に吹きさらされても、毎年時期が来ると必ず花を咲かせます。
私が育った北海道の稚内は、日本最北端の町で冬の寒さと厳しさは東北の比ではありません。しかし、さらに北にはロシア領サハリンがあり、その冬の厳しさは北海道の比ではありません。ヨハネ福音書15章2節には、父なる神はぶどうの木の枝の刈り込みをされることが記されています。木は樹液を出して刈り込みの苦しみを耐えますが、それは良い多くの実を結ぶための父なる神と主ご自身の関係も現わしています。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。