人は4つの重荷を背負って生活しています。生活の重荷、運命の重荷、罪の重荷、死の重荷です。このような重荷を背負って、苦労をし、疲れている人々を、主イエスは「わたしの所に来なさい」と優しく招いておられます。主イエスにお祈りし、重荷をお委ねするなら重荷を降ろすことができます。
主イエスは、すべての人の罪を背負い十字架で死に、3日目によみがえり、今も生きて私たちのためにとりなしていて下さいます。私たちは、疲れた人や苦労して悩んでいる人の友達になるより、そういう友達から離れたいと思うものです。しかし神の独り子、主イエスは違います。疲れた人、重荷を背負って苦労している人を招いておられます。
生活の重荷、衣食住の問題で悩んでいる人に、主イエスは、「空の鳥は、種蒔きも刈り入れもしないが、天の父なる神が守り養って下さるので、空の鳥より貴い大切な存在の人間は神に委ね生活する」ように招いて下さっているのです。
運命の重荷で悩んでいる人々に、生まれつきの盲人の記事(あのヨハネによる福音書9章)から、主イエスは私たちに語りかけています。「この人が罪を犯したのではなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」と絶望から希望の人生に切り替えてくださいます。感謝なことです。
さて、人生の一番厄介な2つの重荷があります。それは罪と死の問題です。自分の努力や学びでは解決できない重荷です。
主イエスはこの重荷の解決のためにおいで下さいました。「罪の支払う報酬は死であるが、しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の生命です」と聖書に記されています。
私たちの不幸の原因は、神に祈り、罪の重荷を委ねるお方を知らないことです。
私は貧しい家庭に生まれました。3歳上の兄は知的障害者でした。3歳のとき種痘の後高熱を出しました。真面目な父は左官業をしていました。父は保証をして、保証倒れになり貧しくなったと姉から聞きました。
高校の卒業式の当日、父が自殺し、どんなにしても払いのけられない問題にぶつかって悩みました。教会に行って主イエスに祈るようになりました。不幸の原因は、周りにあるより、私と神との間が断絶していることが原因であることが理解できました。わがままや罪を神にお詫びしました。不幸の原因を人のせいにして、人を指さしていましたが、知らない間に指をささなくなりました。
主イエスは、私たちの4つの重荷を除かれた代わりに、人のためにお祈りする祈りの重荷を、福音を伝える救霊の重荷を、教会のために労する奉仕の重荷を与えて下さいました。主イエスも一緒に重荷を負い、労して下さるので喜んで働くことができます。
今までのような空しさ、孤独から解放されました。罪の責めから、死の恐怖から解き放たれ喜んで奉仕に当たることができます。主イエスは、あなたを今日も優しく招いておられます。「私の所に来なさい」と。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。