私は30年近く宮城県三陸沿岸部でプロテスタント教会の牧師をしています。千葉市にある教団立の神学校一年在学中春の「過ぎ越しの祭り」に、当時の教団理事長の谷中廣美御夫妻の運転手として渋谷の旧ユダヤセンターのシナゴーグへ参加しました。
昭和天皇の弟宮の三笠宮殿下がラビに促されて、旧約聖書の出エジプト記をヘブライ語で朗読されていたのが印象的でした。また神学校の授業としてユダヤセンターの当時の新任ラビのアビー・アビネヤ師から、私たちはヘブライ語とラビ的聖書解釈学を学びました。日本の神学校でユダヤ教のラビが教えるのは殆ど無かったと思います。アビネヤ師が来る日は、しきたりに従って清浄食を器まで厳選してお出ししていました。
教団の本部と併設されていた神学校には、イスラエルから来客も多々在りました。当教団はかつてナチス・ドイツから迫害されてナホトカ経由で日本に一時、神戸等に滞在していたユダヤの皆さんを、滞在中にささやかですが物心両面でサポートしていました。
19世紀末にアメリカ・シカゴのムーディ聖書学院に留学していた創設者、中田重治師が東欧・ロシアから移民してきた現地シカゴのユダヤ民族に抱いた篤い思いを、当教団はそのまま継承し続け、祝福を祈り続けてきました。昭和16年にはそうしたこと等で内務省管轄下の特別高等警察から反国家の嫌疑を受け、海外の教会も含めて一斉に牧師が検挙されました。当教団の初代理事長の森五郎牧師も、上海教会の牧師時代に教会地下室にユダヤ人をお世話していた事でスパイ容疑を掛けられ、東京の巣鴨拘置所で終戦まで拘置されていました。
日本のプロテスタント教会の中にあって当教団は、イスラエルを愛し、その祝福を毎日祈り続けているという奇異の思いで見られていました。今は時代が変わって随分状況も変化し、リーズナブルな扱いを受けるようになりました。
私も宮城に赴任してすぐに、女川町の銭湯でオデッド・カルミ君というイスラエルの兵役を済ませ、日本を旅行している青年と親しくなり、彼は一カ月ほど教会に滞在していきました。彼の叔父叔母たち親族の大半がホロコーストの犠牲になったと聞きました。
今から13年前の夏に、欧州オーストリアにある「ウィーン日本語教会」の私の先輩牧師がルーマニアに行くので、その留守の教会に私が奉仕させて頂きました。滞在中にオデッド君の話の検証を私なりにしてみました。ハンガリーやチェコ、南ドイツ、又、ヒトラーが学んでいたリンツ市などに足を伸ばし、ホロコーストの悲惨な歴史を自分なりに日本で調べていた資料とつきあわせ、欧州のユダヤ人の体験した事に一人涙を流し、二度とこのような事のないように祈りをささげたことでした。
私個人もイスラエル聖地旅行の体験をさせていただき、教団としてもたびたび聖地旅行団を結成して出掛けています。日イ親善協会の理事をされた当教団の故・谷中さかえ牧師や故・岡藤義邦牧師、また現理事の石川洋一牧師も個人で再々旅行団を募って結成し、聖地旅行をされています。
教団としましては、カルメル山の植林事業やこのしばらくはロシアから帰還してきた方々をサポートしている団体に献金をしています。毎年春に開催される全国大会に歴代の駐日大使閣下のご臨席を賜り、講演を何度か頂いて参りました。
戦後新たに基督聖協団として一昨年は創立50周年を迎え、記念聖地旅行団を結成して私も団長として参加予定でしたが、体調を崩して行かれませんでした。しかし、神様は再度、エレツ・イスラエルに立たせて下さると思いをはせています。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。