平和だ、平和だ、といいながら、ケンカばかりしている平和運動家がいる。
慈善だ、人間愛だ、といいながら、自分の妻を愛さない社会事業家がいる。
国を治めたいと立候補しながら、自分の家庭は治めたくない政治家もいる。
よその子どもは教えても、自分の子は教えない教育者もいる。
しかも、信者にだけは厳しくて、自分には厳しくない宗教家もいる。これほど大きな偽善はないと思う。
宗教家がニセモノだから、本気で信仰をしない、独りで宗教書を読むほうがよい!という人が多い。息子の友人は初詣でに行って、神主が使うのかと思うとシャクだけど、神さまにはあげんとわるいので、十円玉を思いっきり遠く、神社の屋根に投げあげて、帰ってきたそうだ。
他の宗教家ならいざ知らず、教会の牧師さえも社会から信用されていないとしたら大きな問題だ。教会も、会堂ができ、一応牧師の生活が成り立つほどに人が集まり、企業的に成功していれば、もう腰を落ち着け、年に二回ほど特伝をして、それでよいと思っているふしがある。
宗教家とは本来、もっと純粋で激しいものだ。人の魂の救いのために、うめき、苦しみ、燃えつきるものではあるまいか。
「心狂えるならばキリストのため!」というようなものがほしい。
(恵みの雨 1983年2月号掲載)
(C)新生宣教団
植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。