チィ、チィ、チィ、チィ、チィ。小鳥の鳴き声とともに、イエスは目を覚ました。朝日がイエスの顔にあたり、その光線はからだをすみずみまで温めていった。イエスはあえて目を開かなかった。からだに広がっていくぬくもりに身をゆだね、そのすがすがしさをゆっくりとあじわっていたかった。
まぶたには父なる神の笑顔が浮かび、その微笑みは「あなたはわたしの愛する子。あなたは私の喜びそのもの」とささやいていた。イエスは目を閉じたまま、いつまでも太陽のあたたかさを感じ、父の笑顔を見、その声にからだを浸していたかった。全身はみるみるうちに活力で満たされ、からだの芯から湧き上がってくるエネルギーは、それ以上目を閉じていることも横たわっていることも許さなかった。そのとき、しっかりした声が聞こえてきた。
起きよ。光を放て。
あなたの光が来て、
主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ、やみが地をおおい、
暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、
その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、
王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
イエスが床から立ちあがった瞬間、今までのからだと違う、と感じた。「新しい、何もかも新しい、からだまで新しい」。経験した死を通過するような苦しみは精神的なものであったが、精神的な領域を超えて肉体的な苦しみをともなったために、肉体までが再生されたように感じたのだ。
「イエスが目を覚ました!」イエスの立った姿を見た弟子が叫ぶと、その声はトランペットが鳴り響くように修道所をこだましていった。あっという間に、イエスは仲間たちに囲まれた。その顔は驚きそのものであった。彼らもイエスに大きな変化が起こったことを瞬時に察した。
顔かたち、体型が変わったわけではない。しかし、すべてが変わっていた。その眼、その顔、その肌、からだそのものが発光していたのだ。
自分でも驚くようなことばが自分の口をついてきた。
「わたしはよみがえりです、いのちです」
確かに大きな変化が起こったのだ。自分が語っているのに、自分が語っているのではなく、自分のうちにいる父なる神が語っていた。驚きに満たされた顔に向かって、「わたしと父は一つです。わたしの語ることばはわたしが語っているのではなく、父が私にあって語っているのです」。イエスは自分の口が管になったことも自覚した。自分の口が音を立てていることには間違いないのだが、そのことばは頭脳からではなく、存在の根底から湧き上がってきたのだ。
自分の口は泉のようだった。まるで、地下の深みに溜まった膨大な水のプレッシャーにより、耐えきれず湧き上がっていく泉の湧き水のように、ことばが存在の奥底から、イエスの口を通して押し上げられたのだ。(次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。