キリスト教会へ行くまで、祈ったことが一度もない無神論的な少年時代を過ごしました。「アーメン。信じます」とバプテスマを受け、クリスチャンとなって初めての礼拝のときでした。
牧師が、「兄弟。前に来て祈ってください」と、突然指名されたのです。人と話したこともほとんどない人生、神様にお話ししたこともなく、「天のお父様・・・・」言葉が続かず、長い間の沈黙。やっと牧師がアーメンと言ってくれたので、聞こえないような小さな声で「アーメン」。
キリスト教会での恥ずかしい経験で、祈りの生活がスタートしました。聖書には、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(マタイ6:8)とあります。クリスチャンになった当初から神がすべての必要を知っておられる恵みの祈りでした。
親は、子どもが求める先から、その必要を知って与える備えをする以上に、父なる神は私たちの願いに心を開いて備えをしていてくださるのです。結婚して12年目に長男が与えられ、長女誕生で2人の子どもを育てました。子育ては私がしたと家内に言われながら、次のことだけをしっかり守りました。
一つは、子どもたちを心を込めて愛したことです。
もう一つは、約束したことは必ず守ったことです。
子どもたちは、誕生日にあれが欲しいと願って父がわかったよと答えると、二度とうるさく求めることはありませんでした。求めたものが手に入るまでには時間がかかるときもあります。時々は、あれ買ってくれるよねと何度か聞くことはあっても、不安や恐れ、疑いの気持ちではなく、愛の信頼の求めでした。
イエス・キリストを信じることにより、神の子とされた私たちは、人間の父よりも何百倍も大きく、真実な天の父を神として祈る幸いを与えられています。
わすか30秒の祈りが世界を変えるというのは、長い時間祈ってはいけないという意味では決してありません。長い時間あれをしてくれ、これをして欲しいとうるさく言わなくても、神との交わりの中で必要なことを率直に求めることです。
まず第一に、霊的な祝福、聖霊に満たされて神との交わりがいつも豊かであるようにと祈ります。まして神は求めて来る者に聖霊をくださらないことがありましょうか。求めるとき、聖霊のバプテスマだけでなく、聖霊充満の恵みを受けるから幸いです。
第二に、心の安らぎを受けます。愛し合う夫婦はいっしょにいるだけで平安です。信頼しあう親子も同じです。子どもが幼い頃、書斎に入ってきて、何か用事?とたずねると、お父さんと一緒にいたいからと答え、じっと待っていてくれたことがあります。今は、孫がときどき遊びに来て、おじいちゃんといっしょに居たいから、ということもあります。イライラやプレッシャーから解き放たれ、精神的に安らぐ祈りを感謝します。
第三に、主の祈りでも「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るように、すべての必要を祈ることができます。贅沢をするのではなく、必要な物は必ずキリスト・イエスにある栄光の富の中から供給されると、アドナイ・イルエの神は約束しておられます。
具体的に、明確に必要を求めるとき、思いをはるかに越えた祝福の備えを体験できます。9月にコミックを出版するために、200万円が必要です。金も我が物、銀も我が物と宣言される神に求めるとき、お金も豊かに与えられる幸いを感謝します。何も心配しないでよいと約束された主にお願いできるからです。
第四に、健康についても祈ることができます。約束は、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」(テサロニケ人への手紙第一5:23〜24)。
第五に、とりなしの祈りの恵みが与えられます。様々な祈りや求めがありますが、素直に率直に、父なる神にイエス・キリストのお名前によって祈るとき、考えられないような祝福をいただけることはすばらしいことです。
「アーメン。信じます。ありがとうございます。すべての祈りをお聞きくださいました。感謝します!」
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。