先日ある友人と話をしていたら、個々の血液型の性格について詳しく教えてくれました。私は話を聞きながら、「この話題久しぶりだな」と思っていました。私自身が血液型占いの呪縛にとらわれていないということもありますが、しばらく私の周りにもこの話題をする人はほとんどいなかったのです。
私は彼女の主張を聞いて、本当に日本人は血液型で性格を判断することが好きな国民だと感じました。
私の知る限りドイツでは親しい友人と一緒に食事をしていても、血液型の話が出ることはなく、自分の血液型でさえ知らない人がほとんどでした。日本以外の国の人々にとって血液型は、病気で必要になった時に初めて知ることが多いようです。
なぜ日本でこれだけ血液型占いが浸透したのか?と、この話題が出るたびに不思議に思うのです。
まだ良く知らない人物ついて、その人の情報を前もって得ることで安心するという心理からなのでしょうか?
血液型での性格判断が単にこれから知り合う人同士のコミュニケーションで済むのならいいのですが、この決め付けによって不快な思いをする人がいるとしたなら、このコミュニケーションツールはあまり有効な手段とは言えないと思います。それに4種類しかない血液型で誰かの性格を判断することは、ある種の決め付けだと私は思うのです。
例えば「あの人のお父さんは立派な人だから」とか「あの人のお家はお金持ちだから」ということで誰かを判断し、その人自身を見ようとしないのは間違っているはずです。
残念ながらヨーロッパでも、いまだにこのような考えを持っている人はいるようですけれど・・・。
私たちは何かを決め付けてしまえば安心できるのでしょうか?けれどもその決め付けによって、相手から新しい発見や学ぶことができないことはもったいないことです。Es ist sehr schade!「本当にもったいない!」
私たちはいつも前へ進むための指針になる何かを求めています。占いは恐らく日本の人々にとって人生の指針となっているのでしょう。
神様は私たちがどのように思い、歩んでいるかによって、それぞれの道を示して下さいます。
マスコミなどに決めつけられた性格よりも、自分のことを一番よく知っているのは自分自身だと思います。そして私たちを創られた神様もよくご存知です。神様は私たちの異なったそれぞれの性格を受け入れ、また愛して下さるのです。
私は誰かに決めつけられた性格の通りに行動するのではなく、神様の声に答えながら素直に生きていきたいと思っています。なぜなら神様から与えられたその生き方こそが、私らしく自由にしてくれるからです。
血液型は私たちの体の一部であり、性格を特定するものではないはずです。
自らの知識によって誰かを判断するのではなく、その人との交わりによって、相手の喜びや痛みを理解できる人が本当の隣人なのではないでしょうか。
これからたくさんの人と出会っても恐れることなく、神様が私たちを受け入れて下さったようにひろい心を持って、神の子として歩んで行けたらと思います。
相手の人の血液型が何型であっても、Das ist mir ganz Egal!「私にはどうでも良いこと」なのです。
誰かと交わる時に、事前に仕入れた情報などは必要ないのです。必要なのは相手のことを理解しようとする心なのです。
【by Tokyoterin - 東京在住の女性クリスチャン】