モーセは殺すなかれといい、キリストは悪人に手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬を向けよといった。パウロも復讐するなと教えた。
教えただけではない。ほんとうに、十字架の上で、父よ彼らを赦し給え!と祈られた。
それなのに、地上に戦争はなくならない。正義のためといって戦争を始め、人を殺す。神以外のだれが、神に代わって人を殺す権利があるのだろうか。
私は少年のとき戦争が始まり、戦争の悲惨さを身をもって知った。戦後ヒロシマを知り、アウシュビッツも知った。日本軍の残虐非道の行為も聞いた。だれがとくに悪いのではない。戦争が悪いのだ。戦争が人を狂わせる。だから絶対に戦争はしてはならない、と心に誓った。
以来私は、どの平和団体にも属さなかったが、もし再軍備が始まり、徴兵令状がきても、絶対に徴兵を拒否して刑務所へ行こう!と決心した。自分が若い間はいつも緊張があったし、長男が生まれたときも、この子が戦争に行くようになるのではないかと緊張した。
自分がはいるかもしれない可能性があると思ったので、刑務所の教誨師をした。だから刑務所はこわくない。いや、死刑もこわくない。戦って百万人死んでも平和はないが、戦わないために百人死んだら価値がある。
殺されても殺すまい。殺さないためになら死んでもいい。
(恵みの雨 1983年10月号掲載)
(C)新生宣教団
植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。