記念品贈呈
中学の卒業式には、記念品贈呈の目録を校長先生に渡す代表に選ばれた。千名を越える生徒と父兄、職員のいる中での、一つの晴れの代表である。私は前日から落ち着かなかった。卒業式の最初から、「記念品目録、一つ 築山、卒業生代表 工藤公敏」と何回繰り返したことか。いよいよ私の番になった。校長先生の前に出て行ったものの、暗記していたはずの築山が出てこない。築山とは、松ノ木や庭石の山のことである。何分経ったのだろうか。大分長い時間のように思われた。ようやく思い出した。後で考えると、目録の用紙を開いて読めば良かったのであるが、先生に言われて暗記したのが良くなかった。頭が真っ白になってしまったのだ。
それだけならまだ良いのだが、校長先生に目録を渡す時に、目録と書いてある方を校長先生に向けて渡すように言われたことを、渡す途中で思い出して方向を変えたのだ。
壇から降りるのに、卒業証書をもらうようなつもりで、両手を挙げて後ろ向きで降りてきたから式がどのようになったか、今考えても冷や汗が流れる。穴があったら入りたい。死にたいと本気で考えた。恥ずかしくて仕方がない。でもそこから逃げ去る訳にいかない惨めな自分がいる。こんな晴れ舞台の失敗は、それからの私の公な場所の奉仕に役立った。
出来るだけメモをして話すことを心がけるようになった。それでもまだ失敗が多い。担任の牛越先生のお気持ちはどうだっただろうかと思うようになったのは、最近のことである。
ジャンバルジャンにはなりたくない
ようやく高校に入学でき、高校生活も慣れてきた日のことであった。授業中に一切れのパンが私のところに飛んできた。私もそれを投げた。他の人も中継したが黒板に向かって字を書いている先生の足元に転がっていった。「だれだー」と先生はどなられ、「パンを投げた者は立つように」と言われた。私は立たないでうつむいていた。二人の友達が立ち上がった。丸山君と中沢君である。私は卑怯者であったが立たなかった。せっかく入学した高校でクラス委員にもなり、これからすばらしい道が開かれようとしているのに、パン一切れでジャンバルジャンのようになるわけにはいかない。二人は「放課後先生の部屋に来るように」言われた。私は生徒会長もし、一流会社に就職した。しかし、いつも引け目を感じていたのは、パンの事件のことだった。
教会に行ってから、私は二人の友達と担任の三枝先生にお詫びの手紙を出した。そして、今後卑怯な真似をしないよう神に憐れみを求めた。
小豆島で学生キャンプ
高校三年生のときであった。読売新聞主催の全国学生キャンプに長野県から二人の中に選ばれた。長野市の高校生と私が選ばれ、全国で百名のキャンパーに仲間入りした。一週間ほどのキャンプであったが、生涯思い出すキャンプとなった。神戸から船で小豆島に渡った。費用は新聞社持ちであった。
小豆島は「二十四の瞳」の発祥地である。私はこのキャンプで大自然でのキャンプのすばらしさを知った。大学生がリーダーとしてついて一緒に生活し指導してくださった。そのリーダーの人格にも引かれた。グループごとのキャンプファイヤーも心に焼きついた。小豆島の坂戸港で皆と別れる時に男泣きに手放しで泣いた。友との関係もすばらしかった。
このキャンプでの経験が、聖書学院でバイブルキャンプを始めるのに役立った。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。