小さな子どもを見ていると、そのなかに無限の可能性がひそんでいることがよくわかる。しかし、だれかがその子を心から愛しはぐくんで、その才能を引き出し、開発し、訓練しなければ、その可能性のほとんどは未開発のままで終わってしまう。もし自分の家の地下に巨億の財宝や地下資源が埋蔵されていたとしても、だれもそれを知らず、発掘もせず利用もしなければ、それは無いのと同じである。
物ならば、利用されようとされまいと問題はないが、人間はそうはいかない。可能性があるのに開発されず、才能があるのに活かされないと、不完全燃焼のストーブのようにおびただしいススを出して、本人の不幸はもちろんのこと、周囲の人にも多大の迷惑をおよぼすことになる。よく、学生時代は暴走族、社会に出ても職場を変え、鬱々としていた人が、これぞ天職というような仕事に巡りあい、人が変わったようになることがある。そのような場合はかならず、だれかその人をよく理解し、愛し、活かして用いてくれる人に出会えたのだと思う。
悲しいことに人間は、自分ではなかなか自分の才能に気がつかない。気がついてもそれに自信がない。活かすことができない。社会に認められ、人の役に立つようになるのには年期がいる。どうしても良き師に出会い、啓発、訓練、薫陶をいただく必要がある。人に教えられなくても、自分で自分の才能を発揮し、幼少のころから人を驚かせ、かつ大成するのは天才であって、だれにでも期待できることではない。
そう思うと、私はまだ少年といってよいほどの若いころに、偉大な人生の良き師に出会ったことを感謝せずにはいられない。この方は、私のことを私自身が知っているよりもよく知っており、私の弱さ、軽薄さ、虚無感、劣等感、敗北感、そして性の欲望とうぬぼれと好奇心など、醜い私のすべてをゆるし、不始末も全部引き受け、いつもそばにいて教えてくださった。この愛の深さ、品性の高潔さはたとえようもなく、私が間違ったら厳しくしかり、わびて帰ると涙を流し、抱いて喜んでくださった。そして折にかなった教師を私につけ、専門の教育もしてくださった。私は早く父を亡くしたが、自分の父以上に全責任を負ってくださる方に出会って、だれよりも幸せだったと思っている。
人生は出会いで決まる!
出会いとは、その人の人生を変えてしまうほどの人に、巡り合うということである。ちなみに、私の出会った人の名を申し上げる。
その名はイエス・キリスト。
(中国新聞 1983年1月25日掲載)
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植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。