「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)
ある男が新車の発表会に行きました。新しい車がズラーッと並んでいます。その中で特に目を引いたのは、カッコイイスポーツカーでした。
このスポーツカーは最新の装備を持ち、あっという間にトップスピードに乗ることができました。エンジンをかけてから100キロのスピードを出すまでに、4秒もかからないのです。彼は、このスポーツカーがどうしても欲しくてたまらなくなりました。
それで家に帰って妻に相談しました。「新しい車買いたいんだけどどうかな? スゴイんだぞ。4秒以内に100キロを超えるんだ!」妻の答えはもちろん「NO!」しかし彼は諦められずに必死に食い下がります。
「どうしても欲しいんだ。もうすぐボクの誕生日だし、いいだろー!4秒以内に100キロだぜ!これを買ってくれたらもう一生何か欲しいって言わないからさ」。そこで妻は仕方なく言いました。「分かったわ!4秒以内に100キロを超えるのをあなたの誕生日プレゼントにしてあげる」
そして、彼の誕生日がやって来ました。彼は仕事が終わると、すぐに家に帰りました。
妻が言いました。「あなたおかえりなさい。プレゼントはガレージにあるわよ!」彼が喜び勇んでガレージに行って見ると、きれいなリボンがかかった新しい体重計が置いてあり、メモが貼ってありました。
「あなたが乗れば4秒以内に100キロを超えます」
私たちの住んでいる世界では「速い」ということに価値があります。オリンピックの競技も速さを競います。乗り物(自動車、船、飛行機、列車)も速さを追求します。より速い宅急便、より速い出前、より速い仕事が要求されます。母親は子どもに対して口ぐせのように言います。「早く、早く、早くしなさい」
しかし聖書を見るとき、イエス・キリストの周りでは、時間はゆっくり深みを持って流れているようです。聖書のメッセージは、速さよりも方向の大切さを教えています。「あなたは速く、早くと人生を走っているけれど、その方向性は正しいのか?」と問いかけるのです。
一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。死が近いある夜のこと。消灯時間が過ぎても寝付かれないでいるその子のために、若い看護師さんが本を読んでくれたそうです。
やがて静かな寝息をたて始めた子ども。しかしその看護師さんは、なおも30分近くベッドサイドにいたのです。その娘が亡くなった後で母親がこう言ったそうです。「あの子がその夜ふっと薄目を開けて見たとき、まだ看護師さんがそばにいてくれた。眠らせるためだけに本を読んでくれる人が多いのに本当にうれしかった」
私たちは忙しさを理由にして、用事のためだけに人と共にいることが多くなっているのかもしれません。イエス・キリストは用事のためだけにこの世に来られたのではありません。子どもを寝かせつけるや否や去っていく人としてではなく、子どもと共にいるために来られたのです。
もし「救い」という用事のためだけならば、幼子の姿をとる必要はなかったのです。この地上に33年もとどまる必要もなかったし、十字架の苦しみも、死ぬ必要もなかったのです。ただ「赦(ゆる)す」というメッセージを大空に書けばよかったのです。
しかし、イエス・キリストは私たちを愛する故にこの世に来られ、人々の間に住まわれ、痛み、苦しみ、悲しみを味わわれたのです。私たちはこのイエスの愛に応えるために「自分にできる最高のことをして」お仕えするのです。
私は2005年に中国の地下教会に聖書を運んだとき、一人の指導者にお会いしました。91歳でした。人々は彼のことを「パンダ先生」と呼びました。初めて会った人が動物園のパンダの檻の前で待ち合わせをしたので「パンダ先生」と呼ばれることになったのです。
パンダ先生は1958年(44歳)に信仰の故に逮捕され、シベリアに近い黒竜江省の労働改造所に送られます。無期懲役です。厳しい気候(冬はマイナス30度)の中で、昼間は9時間の重労働、夜は思想教育を受けます。
21年と8カ月そこにいましたが、1979年に釈放されます。それは労働改造所に次々と人が送られてきたために、60歳以上で20年以上中にいる者は出されたのです。44歳から65歳という人生の成熟期を牢獄で過ごしたのです。
「どうして21年8カ月も耐えられたのですか」とお聞きすると、「心に暗記した聖書の言葉(特に詩篇27篇)と『丘に立てる粗削りの』という賛美歌によって私の信仰は守られました」と言われました。さらに「私は無期懲役でしたから、家に帰れる希望はありませんでした。ここで死ぬ、それでいい。喜んで主のために死のう。そして、今日一日生かされるならこの一日を主のために生きよう。そう思っていました。主イエス様の十字架の苦しみに比べれば、私の苦しみは苦しみというのに値しません」と言われました。
先生の奥様は大変美しい方で、夫が無期懲役で逮捕されたとき、正式に離婚の手続きをとって再婚するように共産党の幹部から何度も勧められたそうです。奥様はそれをキッパリと断り、帰って来る見込みのないパンダ先生の妻であり続けることを選ばれたのです。奥様は夫が帰って来るようにではなく、夫が遣わされた所でイエス様の使命を全うできるように祈り続けたそうです。
私たちが先生ご夫妻のお宅を訪ねたときは冬の夕暮れ時でした。部屋に入ると和(にこ)やかに迎えてくださり、お茶、お菓子、果物をさかんに勧めてくださいました。それは、久し振りに訪ねてきた孫を歓待するオジイちゃんとオバアちゃんのようでした。
しかしその部屋にはイエス様のご臨在が満ち満ちていました。忘れることのできない経験でした。最後に「丘に立てる粗削りの十字架」を一緒に賛美しました。天国の心地でした。
私たちが中国から帰ってしばらくして「パンダ先生が天国に召されました」という連絡を頂きました。91年の神に祝福された生涯を終えて天に帰られました。私たちも天国に行くとき、再びお会いできるのです。
イエス・キリストを信じるとは「私たちを愛して十字架で死んでくださり、3日目によみがえられたイエスをいつも見上げて、どこまでも、どんな時も王の王、主の主として従っていくこと」です。それはゆっくりとした、充実した人生なのです。
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