(※安全のため、登場する人物の名前や地名は架空のものに変えてあります。)
その後のファイザは、とりなしの祈りを愛する彼女の賜物を生かして、全国的なとりなしの祈りのミニストリーを始め、今でもパーム油を売りながら福音を伝えている。(第1回から読む)
使徒の働きは、ミニストリーの働きの大半が専門者ではない普通の信者たちによってなされたことを示している。イエスの弟子の何人かは地味な漁師だった。パウロでさえテント職人として自活しながら伝道をした。
21世紀の西洋の教会が伸び悩んでいる理由の一つは、神の名の下に不可能を可能にする普通の人々という弟子作りの原型となったDNAが失われてしまったことにあるのかもしれない。そのDNAは、今日の家の教会を中心とする草の根の運動の弟子作りの中で取り戻されつつある。
よみがえりの主が天に挙げられる前に弟子たちに与えた最後の教えが大宣教命令だ。今日の弟子化の運動は、それぞれのバックグラウンドに関係なく、この命令を真剣に受け止めた全ての聖徒を弟子作りの担い手として力づけることを基本としているのである。
聖書は言う。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」(1コリント1:27、28)
文盲の者を大伝道者に仕立てるとは、いかにも神のなさる御業ではないか。大学者であろうと、文盲の者であろうと、人間は主の目に全く変わらない。だからこそを自分を低くして謙遜に主の奉仕に参加させていただくのだ。
彼の地、西アフリカの宣教の担い手であるこれら「この世のなきに等しい者たち」が、さらなる大いなる収穫を得るよう祈っていただきたい。
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