ケビンはウーバーの運転手をして生計を立てていた。ある日、彼は約30分の道のりをキリスト教の伝道者を乗せて運転していた。車内の会話は日常的な会話から始まった。家族がいるのか、一日中この仕事をしているのかなどの軽い会話だった。そして伝道者は切り込んだ。神がケビンを愛しておられることを知っているのかを尋ねたのだ。
ケビンは自分の身の上を打ち明け始めた。彼は16年間の結婚生活を送っていたが、4年前、妻が他の女性の元へ去ってしまったのだ。彼は今も耐えがたい心痛を経験している。この4年間、子どもたちのためだけに、なんとかかんとか、かろうじて生きてきたのだ。伝道者はしばらく彼の話を聞いていた。ケビンはプエルトリコの貧しい家庭で育ったが、仕事を求めて米国に渡ってきたのだ。父親はケビンが物心ついたときにはいなかった。そのため、彼を育ててくれた母親は、ケビンにとって親友そのものだった。
ケビンはこう語った。「ある日、私が運転していると事故現場に遭遇しました。被害者を救助しようと、車を降りて近づいてみると、なんとそれは私の母親だったのです。彼女はそこに横たわって死にかけていました。あの時の母の目は、決して忘れることができません。私は親友としてずっと一緒に過ごしてきた母を失ってしまったのです。その瞬間から全てが変わりました。完全に孤独になってしまったのです。神がおられることは信じていましたが、その時の私には、神は愛だなどと、どうして信じることができたでしょう」
彼の話を聞いていた伝道者は、静かに福音を分かち合い始めた。神は、ご自身の御子をさえ惜しまずにお与えになるほど私たちを愛しておられ、孤児の父であることを伝えたのだ。
ケビンは白いハンカチを出して、とうとうと流れる涙をぬぐい始めた。伝道者がキリストを主として受け入れることをケビンに提案すると、彼ははっきりとうなずいた。そして、彼らは共に祈ったのだ。一言ずつ祈るのだが、先に進むのに時間がかかった。ケビンは何度もあふれる涙をハンカチで拭わなければならなかったからだ。その日、ケビンは御父の腕の中、永遠の故郷に帰ったのだ。
彼は神を信じていたが、イエスを主として受け入れることはそれまでの人生で一度もなかった。孤独を感じていた彼は今それをしたことで、もはや一人で人生を歩む必要がないことが分かった。そう、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と約束された方と共に歩む人生が始まったのだ。
聖書が言うように、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15:10)のだ。だから「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱ」(ローマ10:15)なことだろう。
救いは目の前にいる一人から始まる。今日もあらゆる機会を捉えて、この福音を分かち合っている兄弟姉妹たちがいる。米国でまかれている福音の種が、豊かな救霊をもたらすように祈っていただきたい。
■ 米国の宗教人口
プロテスタント 35・3%
カトリック 21・2%
正教 1・7%
ユダヤ教 1・7%
イスラム 1・6%
無神論 16・5%
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