英国の政治情勢は、相変わらず嵐が吹き荒れていた。第2次内乱が勃発し、議会軍が勝利した1649年、チャールズ1世は反逆罪に問われて処刑され、共和国となった。
こうした事情は宗教の面にも反映し、英国国教会の圧迫から逃れた一部の人たちは、定まった形態の組織を持つことなく、互いを啓発するために集会を持つようになり、富める会員が家を開放し、そこに教会を作った。
ベッドフォードの町でも町長のジョン・グルーと治安判事のジョン・コストンが教会を作り、牧師としてジョン・ギフォードを選んだ。そしてここに清教徒(ピューリタン)のためのバプテスト教会が誕生したのだった。
さて、バンヤンは気立てのいい妻と平穏な日々を送っていたが、彼女の影響でエルストウ教会の朝夕の礼拝に出席するようになった。ここで彼は説教を聞き、聖書の註解や教理を理解できるようになったが、一番彼が知りたいと思っていること、どうしたら自分の罪を解決できるのか――という点に関しては、誰も解答を与えてくれないのだった。
バンヤンは聖書を読んでいるときも、祈っているときも、相変わらず罪の重荷を背負っている自分を感じていた。何をしていても、心の奥底には醜い自我が居座っていた。
ふとその時、彼はあの不思議な言葉を残して死んだ妹のマーガレットのことを思い出した。
(たった一人、私たちを地獄から救ってくださる方がいるわ。罪を知らない方が、みんなの罪を背負ってくださったの。だから私たちは、そのまま天国に行けるのよ)「ああ、マーガレット。兄さんは、まだおまえのこの言葉の深い意味が分からない。でもいつの日か、きっと分かるようになるだろう」
バンヤンは、その日までもっと聖書を学び、もっと祈り、信仰の修練を重ねようと誓うのだった。
1650年。バンヤン夫妻は長女を授かった。メアリーと名付けたこの子は、不幸にも盲目だった。最初落胆はしたものの、すぐに夫妻はこの素晴らしい天からの贈り物を感謝せずにいられなかった。
「あなた、これほど良い子は他にありませんわ」。マーサは娘を抱いてあやしながら言った。実際、これほど手のかからない子はいなかった。めったに夜泣きせず、抱き上げると機嫌よくミルクを飲み、バブバブと言いながらその小さなモミジのような手で父母の顔をなでた。
「いい子ちゃん、バァー」。バンヤンが声をかけると、メアリーはキャッキャッと笑って喜んだ。彼は、なぜかこの子を見ているうちに、神が自分たち家族をいつくしみ、愛を注いでくださっているような気がしてきて、感謝があふれ出してくるのだった。実際、彼は片時も目を離したくないほど、この子がかわいくてたまらなかった。
メアリーは少し大きくなってヨチヨチ歩きができるようになると、父親の仕事場に入ってくることがあった。マーサは危ないと思ったのか奥の部屋につれていこうとしたが、バンヤンはそれを止め、自分のそばにいさせた。
「さ、お鍋さんとお釜さんが歌いまーす!」バンヤンはこう言って、熱した鉄を金床に置き、トンカン、トンカンと金づちでたたき始めた。すると、メアリーは小さな手をパチパチさせて大喜びだった。
「ここに立っているいい子さんは誰でしょう」「メアリーでーす」。すると、バンヤンは手にしていた道具を放り出して、娘を抱き上げるのだった。
この子は盲目であるために、その生活の中において行動範囲が限られていた。そこでバンヤンは、仕事を終え、夕食も済んだ頃、この子を背負って散歩に出かけた。小高い丘を登ると、ちょうど夕日が沈んでいくところだった。
いつかこのように夕焼けがきれいなとき、妹のマーガレットを手押し車に乗せて同じように丘を登ったことが思い出された。
「メアリー、今お日さまが沈んでいくよ」。彼は娘に言った。「お日さまも、もう寝るからおやすみなさいって言ってるんだよ」
メアリーは、見えない目を空に向けた。「ねえ、メアリー、あの空の向こうに何があると思う? そうだ――神様のおうちがあるんだよ」
そう言ってから彼は、今は天国で安らっている妹のマーガレットに心の中で言った。(きっといつか、おまえが言っていたあの言葉の意味を理解できるようなクリスチャンになるからね)
その時バンヤンは、大空の向こうから声があったように思った。
*
<あとがき>
英国の政治情勢も変わりつつありました。ピューリタン革命で議会軍が勝利し、チャールズ1世を処刑して共和国を作ると、それが宗教面にも反映し、英国国教会の圧迫から逃れた清教徒たちは、自分たちの手で教会を作ったのでした。
そうした中で、ベッドフォードにもバプテスト教会ができ、ジョン・ギフォード師が牧師として赴任します。一方、バンヤンは妻の影響でエルストウの教会に通うようになりましたが、一番知りたいと思うこと――どうしたら、自分の罪から逃れられるのか――について教えてくれる人はいませんでした。
そんな中、1650年、バンヤン夫妻に長女が与えられました。メアリーと名付けられたこの子は、不幸にも盲目でした。バンヤンはこの子がかわいくてたまらず、少し大きくなると手押し車に乗せて、丘の後ろに沈む夕日を見に行きました。そうしていると、なぜかあの妹のマーガレットの最期の言葉を思い出すのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。