その頃、英国は政治と宗教を巡って混沌とした中にあり、まさに争いが絶えない時代だった。国王チャールズ2世は専制的な君主で、議会は「権利の請願」を出し、国王と議会の間は緊張状態になっていた。
チャールズ2世は一方的に議会を解散させ、両者の間は次第に険悪になっていった。国民は全て国王の定める英国国教会に属することが強要され、バンヤン家の住む村落においても、社会的、経済的面において全て教会を中心として生活が回っていた。
毎日曜日に教会に出席することは信仰面での正統性だけでなく、共同生活への参加を証明する重要なしるしでもあった。教会を欠席すると、治安判事の承認のもとで1シリングの罰金が課せられた。
そして欠席が長引くと、教区委員によってその人物は裁判所に出頭を命じられるのである。こうした情勢の中で、学校をやめてしまったジョンは、父の仕事を見習い、一人前になるために毎日励んでいた。
「人はもともと汗水たらして働くようにできているのだ。不平を言わずに自分の務めを果たしていれば、必ず神様の祝福を受ける」
相変わらず前掛けを鉄くずで真っ黒にしながら、父のトマス・バンヤンは息子に言い聞かせるのだった。しかし、ジョンは成長していくうちに、こうした父の言葉に反発したい気持ちが湧いてくるのだった。
(お父さんは、教会の牧師や偉い先生の言葉をただうのみにしているだけじゃないか。汗水たらして、苦労して働くだけが能じゃないよ。だって、いい暮らしをして、面白おかしく毎日を送っている人の中にも、天国に行ける約束をされている人がたくさんいるもの)彼はそう思うのだった。
やがて16歳になったジョンは、一人前の鋳掛屋として仕事をこなせるだけの技術が身に付いていた。彼はことのほか手先が器用だったので、父親以上に鍋や釜の修理が上手にでき、注文が次々に入るようになった。
トマス・バンヤンは店を拡大し、ゆくゆくは彼に自分の後を継がせようと考えていた。やがて家計も潤い、家族も人並みの生活が送れるようになってきたので、ジョンは父親からかなりの金を小遣いとしてもらえるようになった。
しかし、これはジョンにとってあまり良い結果をもたらさなかった。彼は技術的に一人前になっても、その精神においてまだ職人としての自覚が身に付いていなかったのである。
彼は週ごとに小遣いをもらうと、すぐにそれをにぎって町に出て行った。市場に行くと、そこには彼が今まで知らなかったわくわくするような世界が広がっていた。
彼は色とりどりの布を広げる生地屋に目を奪われ、王侯が着るようなビロードや絹の服を買い、また魔術師が行う手品や「クマいじめ」のような見せ物に夢中になった。
「鋳掛屋だって金さえできればまんざらじゃないぞ。いくら人から卑しい仕事だと言われても、こんな楽しい思いができるじゃないか」
彼はぶらぶらと夜の町を歩くうちに、ふと一軒の居酒屋を見つけて入ってみた。
「いらっしゃい! ジンをあげましょうか? それともラム酒?」店主が愛想よく笑って声をかけた。
「ラム酒にしようかな」。ジョンはどちらも飲んだことがなく、酒の味など知らなかったが、こう言うと、店主はコップになみなみと酒をついで出した。一口飲むと、ひっくり返りそうに強かったが、ジョンは一気に飲み干した。
「よう、いい飲みっぷりじゃないか」。その時、身なりのいい2人の男が近づいてきて声をかけた。この酒場に出入りして、客を賭博に誘って金を巻き上げるごろつきだった。
彼らは言葉巧みに機嫌をとったので、ジョンはすっかり気をよくして、彼らと親しくなった。彼らは気前よくジョンに酒をおごってくれたので、すっかりいい気分になったジョンは声を張り上げて歌い始めた。
卑しい暮らしをしてたって
金さえありゃ いい夢見るぜ
地獄、天国
天国、地獄
地獄の沙汰も 金次第
ホーイ、ホイホイ、ヤッホッホ
彼らは、やんやとはやし立てた。店の客も手をたたいた。ジョンはすっかりいい気分になって、神を愚弄するだけでなく、ひどく冒瀆(ぼうとく)を始めたのだった。
そのうち、これらのごろつきはジョンを賭博に誘ったので、彼はすっかりのめり込んでしまい、悪習にどっぷりとつかってしまったのだった。
*
<あとがき>
犯罪に手を染めて逮捕された多くの人がよく口にするのは、「遊ぶ金欲しさについやってしまった・・・」「犯罪だとは知らず、誘われるままにやった」などという言い訳です。
人は持ち付けないお金を手にしたり、飲酒をし過ぎたりすると、心に隙ができ、自分でも気付かないうちに悪い習慣に染まってしまうことがよくあります。真面目にコツコツと鋳掛屋の修業をしていたバンヤンも、父親からかなりの小遣いをもらったとき、つい気が大きくなって飲酒や賭博にのめり込み、やがて町のごろつきと付き合うようになった結果、暴言を吐いたり、暴行に及ぶようになってしまいました。
飲酒や賭博そのものが罪ではありませんが、それは破滅への道標となることがあるのです。しかし、バンヤンが重大な犯罪を犯す一歩手前で引き返すことができたのは、まことに神様の愛と恵みによる配慮でした。
神様は滅びの淵から手を差し伸べ、やがて多くの人々に救いの福音を伝える使者となるこの若者を守られたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。