この短い民話は、別名『靴屋のマルチン』として世界的に知られ、よく日曜学校のクリスマス劇で子どもたちによって演じられている名作である。
ロシアの文豪トルストイは、晩年になって、文芸は何よりもキリスト教を土台としたものでなければならないと強く感じ、一般の民衆がよりよく理解できるように、民話という形式の文学に力を注いだ。ここに紹介する『愛のあるところに神あり』もその一つである。この作品は、「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)という聖書の言葉がモチーフになっていて、われわれの心を打つのである。
レフ・トルストイ(1828~1910)について
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』『イワンの馬鹿(ばか)』などで知られるロシアの文豪。1897年に芸術論『芸術とは何か』を出して、真の芸術は美や享楽のみを追求するのではなく、宗教的情操を土台としたものでなければならないと主張し、世の中にセンセーションを巻き起こした。そして、これが彼の文学の土台となったのである。以後、長編小説を多数発表したが、全てこの論理の上に立っている。
晩年には、一般大衆によりよくキリスト教を理解させるために民話という分野に手を染めた。そして、ここで紹介する『愛のあるところに神あり』の他、数編の名作を生み出したのである。彼はまた、その文学作品の中で独自のキリスト教的立場(トルストイ主義)を提唱。金権主義や享楽を否定し、悪への無抵抗や反戦を説き、道徳的権威として世界的に大きな力を持った。1910年、家庭的トラブルから家出をし、寒村の駅舎で病に倒れ、世を去った。
あらすじ
ある町にマルツィン・アフデェーイチという靴屋が住んでいた。彼の住む地下室の窓は往来に向いていたので、その窓からそこを通る人たちの靴がよく見えるのだった。マルツィンはこの町のほとんどの人の靴を修理したので、彼らが履いている靴を見ただけで自分の仕事に満足した。彼は注文を受けると、上等の素材を使い、手間賃も安く、期限には必ず仕上げる誠実な職人だったのである。
彼の妻は以前亡くなり、カピトーシカという子どもが残された。マルツィンは大切にこの子を育て、子どもは成長すると父の手助けをするようになったが、間もなくこの子は病気になり死んでしまった。マルツィンは嘆き悲しみ、神様に文句を言い、教会に行くこともやめてしまった。
そんなある日、マルツィンの所に長い間巡礼に出ていた老人が訪ねてきた。マルツィンは彼に自分の悲しみを訴え、何の望みもない自分は早く死にたいと言ったところ、老人は自分たちには神様の仕事をあれこれ言う権利はないこと、そして神様に命を頂いたのだから、神様のために生きなくてはならないと諭す。そして、こう勧めた。
「本が読めるなら、(聖書の)福音書を読みなさい。そこには神様のために生きるにはどうすればいいのかが書かれている」
そこでマルツィンは、聖書を買ってきて読み始めた。すると、読むごとに心が感謝で満ちあふれ、安らかになるのだった。彼の生活は変わった。この時からぴったりと酒をやめ、朝から仕事場に座って決まった時間働くと、ランプを手元に置き、聖書を読んで寝るのが習慣となった。
その晩もそうして聖書を読んでいたときだった。どこからか「マルツィン!」と名を呼ばれた。振り返って戸口の方を見たが誰もいない。彼は寝床に入り、横になった。すると、突然はっきりと声が聞こえた。「マルツィン! 明日往来を見ていなさい。わたしが行くから」。マルツィンは目を覚まし、椅子から立ち上がったが誰もいなかった。
翌朝早く起き、お祈りをしてから、窓際で仕事を始めたが、彼は往来の方ばかり見ていた。するとそこへ、隣家の商人の所に雇われているスパーヌイチという老人がやってきた。彼は雪をかく力もなく、疲れたようにたたずんでいた。マルツィンは彼を店に招き入れ、温まらせてやってから、お茶を何杯も飲ませてやるのだった。
また靴の修理を始めると、みすぼらしい身なりの女が子どもを抱いてやってきて、窓の所にたたずんでいるのが見えた。マルツィンは飛び出して行って彼女を店に招き入れると、温かいシチューとパンを食べさせてやる。その上、帰るときに20カペイカ銀貨を与え、袖なしの上着まで与えてしまったのだった。
それから、また窓の外を見ると、今度はリンゴの入ったかごを持った老婆が立ち止まるのが見えた。そのかごを置いた瞬間、ボロ着の男の子がやってきてそのリンゴを盗もうとした。怒った老婆は子どもを捕まえて殴ろうとした。あわてて駆け寄ったマルツィンは、老婆をなだめて言うのだった。聖書の中には莫大(ばくだい)な負債のある小作人が主人から赦(ゆる)してもらった話があるが、自分たちはお互いに赦し合わなくてはならないのではないか――と。すると老婆はすっかり優しくなり、男の子も素直に老婆の背負っていた袋を代わりに背負ってやり、2人は仲良く歩いて行くのだった。
それからマルツィンは仕事をし、その後店を閉めて、聖書を読もうと、昨夜革の切れ端をはさんでおいた所を開いた。しかし、どうしたわけか、別のページが開いてしまった。同時に、昨夜の夢がはっきりと思い出された。その時、彼は誰かが後ろに立っているような気配を感じた。そして、こんな声がしたのである。
「マルツィン! おまえにはわしが分からないのかね?」 彼は「誰だね?」と言った。「これがわしだよ」と声が言った。その時、暗い片隅からステパーヌイチが出てきてにっこり笑ったかと思うと消えてしまった。
「これもわしだよ」と、また声が言った。そして暗い片隅から赤ん坊を抱いた女が出てきた。そしてにっこりすると、消えてしまった。「これもわしだよ」と声が言った。すると、老婆とリンゴを手にした男の子が出てきて、にっこりしたかと思うと消えてしまった。
マルツィンは、十字を切り、眼鏡をかけて聖書を読み始めた。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。その時、マルツィンはまさしくこの日、彼のところに救世主が来られたことを知ったのだった。
見どころ
彼には仕事がたくさんあった。なぜなら、アフデェーイチは仕事が手堅く、上等な材料を使ったうえに、手間賃が安く、約束が確かだったからである。(89ページ)
彼の生活は、静かな、喜びにみちたものとなった。朝から仕事にすわって、きまった時間だけ働くと、ランプを鉤(かぎ)からはずしてテーブルの上におき、棚から聖書をとりおろして、それをひらき、腰を掛けて読みはじめる。こうして読んでゆくにしたがって、だんだんとよくわかってきて、心も明るく、かるがるとなってゆくのだった。(93ページ)
「マルツィン!」 とつぜんだれかが、耳もとでこう呼びかけたような気がした。マルツィンは夢心地で、びくりとした――「だれだな?」 彼は振り返って戸口のほうを見た――だれもいない。(略)とつぜんはっきりと声が聞こえた――「マルツィン、おい、マルツィン! 明日往来を見ておれよ、わしが行くから」(96ページ)
マルツィンは残りの茶をついで、それを飲んでしまうと、コップや皿を片づけ、ふたたび窓ぎわの仕事台の前に腰かけて、靴の後部を縫いにかかった。が、縫いながらものべつ窓を見上げて、キリストのくるのを心待ちにし、たえず彼のこと、彼の事業のことばかりを考えていた。彼の頭には、あとからあとからと、さまざまなキリストの言葉が浮かぶのだった。(101、102ページ)
そこでアフデェーイチはばあさんに、一つのたとえ話――ある主人が小作人に莫大な負債をゆるしてやったのに、小作人は出かけて行って、自分が金を貸している男ののどをしめようとした、という話をして聞かせた。ばあさんはじっと聞いていたし、子供も聞いていた。「神さまはゆるせといいつけなすったんだ」とアフデェーイチは言った。「でなくちゃわしらもゆるしていただくわけにゃいかねえ。(略)ことに考えの足りねえ子供なんかはなおさらさ」(109、110ページ)
アフデェーイチの心は喜びでいっぱいになった。彼は十字を切り、めがねをかけて、福音書を読みはじめた――(略)それから、ページの終わりのほうに、またつぎの言葉を読んだ――「汝(なんじ)ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり」(マタイ伝第二十五章)そこでアフデェーイチは、夢が自分を欺かなかったこと、まさしくこの日、彼のところへ、救世主がこられたのだということ、自分が彼を正しく迎えたということを、悟った。(113ページ)
※ 本稿は、『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』(岩波書店 / 岩波文庫、1932年)収録の中村白葉訳「愛あるところに神あり」を基に執筆しています。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。