それはある日の午後のことだった。エルストウの自宅の仕事場で、いつものように客が持ち込んだ鍋や釜の修理をしていたバンヤンは、ふと聞くともなしに女たちの話し声が耳に入るのを覚えた。
すぐ近くの路地裏で、数人の女性たちが立ち話をしている様子だった。思わず彼は耳をそばだてた。
「・・・本当に新しく生まれ変わってから、毎日がもう感謝でしかありませんわ。今まで自分は本当に罪深い人間でしたから」
「私も同じです。何をしても心が満たされなくて、ことごとく家族に文句ばかり言っておりました。人間って本当に生まれつき罪びとなんですねえ」
「でも、私思いましたわ。こんな自分みたいな者でも救われたんだから、イエス様の救いから漏れる人なんかいないのではないかって」
そして、彼女たちは楽しそうに賛美の言葉を口にし、祈りをささげてから去っていった。バンヤンは仕事の手を止め、しばらくぼんやりと作業台のそばに立ち尽くしていた。
(新生だって? 罪からの解放だって?)その時、彼の心に希望の光が差し込んできた。自分がずっと抱えてきた問題の鍵がここにあったからである。
バンヤンは店を飛び出すと、大急ぎで彼女たちの後を追ったが、既にその姿はなかった。彼は近くに荷車を止めていた野菜の行商人に尋ねた。
「ここにいたご婦人たちは、どこの方たちでしょう?」「ああ、彼女たちはベッドフォード街にあるバプテスト教会の会員たちですよ」。行商人は答えた。
国王の定める国教会から離脱した清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人々が、ジョン・ギフォードという牧師を中心に新しい教会を作っていることを既にバンヤンは知っていた。
「マーサ、マーサ」。彼は食事の支度をしている妻に言った。「今度の聖日に、ベッドフォードの町のバプテスト教会に行ってみないか?」妻は同意した。
その次の聖日。バンヤンとその家族はそろってバプテスト教会の礼拝に出かけた。その日の説教は「罪びとの上に注がれる恩寵」というバンヤンにとって一生忘れられないものだった。ジョン・ギフォード師は淡々とした口調で語った。
「人間は生まれながらの罪びとで、いかに律法を守っても、良い行いをしてもその罪を償うことはできないのです。そんな罪びとである私たちを愛するが故に、イエス・キリストは十字架にかかり、永久に罪から解放してくださったのです。だから、本当なら私たちはその罪を負って地獄に落ちるべき身であったのに、誰でもイエス様の御名を呼び求めれば救われます」
これはバンヤンにとって驚くべきメッセージであった。彼は魂を抜かれた人のように走って家に帰った。そして聖日であっても仕事場に入り、鍋や釜の修理を始めたが、その頬には涙が伝って落ちていた。その耳にはギフォード師のメッセージが鳴り響いており、心は喜びのあまり震えた。
この瞬間、あの『誰でも天国に行ける道』という本のタイトルが目の前に浮かび、同時に妹マーガレットが口にした謎の言葉が初めて理解できたのだった。(ただ一人罪を知らない方が、みんなの罪を負ってくださったの。だから、私たちはそのまま天国に行けるのよ)
人間は、自分の力で罪を償うことなどできはしないのだ。それができるのは、ただひとえに神の子であるイエス・キリストが十字架にかかって人間を救ってくださったからなのだ。人間は永久に自由なのだ。
バンヤンは床にばったりと膝をつき、両手を上に差し上げて叫んだ。「ああ、救い主であるイエス様! あなたは私の全てです。私の知恵の全て、私の義の全て、聖潔の全て、贖罪の全てであります!」
この時である。バンヤンは、目の前であれほど恐れ続けてきた地獄が崩壊するのを見た。もはや償いや修行をしたり、苦行を重ねたり、献金をしたり、罪が消えるよう徹夜で祈ったりする必要はなく、妹マーガレットが言うようにただ信じるだけで、そのまま天国に行けるのだった。
バンヤンは次の聖日、ギフォード牧師から洗礼を受け、彼の教会の19番目の会員となった。1653年、バンヤン25歳の時だった。そして2年後、彼と家族はベッドフォードの町に住居を移した。
*
<あとがき>
バンヤンは小さい頃から、信心深く良い行いをする人でなければ天国に行けないと教えられてきました。そして、教会の外にいて、自分の罪を償う力のない者は皆地獄に落とされ、永遠に劫火で焼かれるのだと脅かされてきたのです。
成人してからもバンヤンは、しばしばこの地獄の教理に苦しみました。しかし、愛する妹のマーガレットは「罪を知らないただ一人の方が人間の罪を背負い、誰でも天国に行けるようにしてくださったのよ」と兄に言い残して死去しました。
その後バンヤンは不思議な導きで、気立てがよく信心深い妻をめとり、さらに新しくできたバプテスト教会の婦人たちと巡り会うことによって、真の福音信仰に立つことができるようになりました。
そしてこの教会のジョン・ギフォード牧師によって「イエス・キリストの御名を呼び求める者は全て救われる」ことを教えられ、真の回心へと導かれたのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。