尊敬する人物は?と問われたら、間違いなくベスト3はこの3人である。
イエス・キリスト、新島襄、スティーヴン・スピルバーグ。
1980年代、映画監督スティーヴン・スピルバーグとの出会いは「E.T.」だった。当時、映画館の座席は全席自由。立ち見であっても平気で客を入れる時代にあって、「これ以上入場できません」という立て看板が立てられ、ロビーどころか映画館の外の階段にまで人があふれる光景は、否が応でも「E.T.」という作品への期待値を上げることとなった。
父に連れられて初めて訪れた大型の映画館は、内装もきれいで、スクリーンも地方の映画館とは比べ物にならないくらい大きかった。そして大音量で奏でられる「E.T.」のテーマソング!今でも忘れられないひとときである。
この映画体験が今の私を形作っている。ということは、私はスピルバーグ監督によって映画の世界へ招き入れられたということになる。その後もスピルバーグ監督は、私の青春を導いてくれた。「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「グーニーズ」「グレムリン」「インナースペース」「ニューヨーク東8番街の奇跡」「ロジャー・ラビット」「太陽の帝国」「カラーパープル」「ジュラシック・パーク」・・・。もっと挙げよ、と言われても全然問題ない。彼の監督、製作総指揮作品なら幾つでも挙げられるだろう。
そして今なお私の中に強烈なインパクトを残している2作品がある。「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」である。この2作品には、胸を握りつぶされるような体験をさせられた。恐らく、これに勝る体験は今後できないだろう。
さて、その敬愛すべきスピルバーグ監督が、「この物語を語らずにキャリアを終えることは想像すらできません」と語って製作されたのが本作「フェイブルマンズ」である。彼の自伝的作品であると同時に、「この映画は例え話ではなく、私の記憶なのです」とまで言わしめた特別な作品である。
物語は、1952年に両親と共に映画「地上最大のショウ」を見た一人の少年から始まる。彼の名はサミー・フェイブルマン。自由奔放な母親と、堅実なエンジニアの父親によって愛情深く育てられたサミー少年は、やがて父親の8ミリカメラを駆使して、妹や友人たちが出演する「作品」を作り出していくのだった。
その見事なカメラワークと編集技術は、誰をも魅了するものだった。母親は彼が映画監督になることを応援するようになる。しかし父親は、あくまで「映画は趣味」として、息子には大学へ進学し、エンジニアの道を進んでもらいたいと願っていたのであった。
やがてサミー少年は、「映画を撮る」ということの「残酷な現実」に遭遇する。それは一見幸せな彼の家族の「暗部」をさらけ出すこととなる。10代になったサミー少年は、父親の転職でニュージャージー州からアリゾナ州、そして映画の都ハリウッドがあるカリフォルニア州へと引っ越すことになる。そこで彼を待ち受けていた思いもよらぬ出来事の数々。必死に生き抜く彼にとって、支えとなるのはやはり「映画を撮る」ことだけだった――。
本作は、映画に魅了された一人の少年の物語である。と同時に、この少年が生み出した数々の傑作によって魅了された全世界のファンたち(私もその一人です!)にとって、舞台裏のそのまた内奥を垣間見せてもらえる貴重な一作となっている。
サミー少年が体験した数々の出来事は、そのほとんどがスピルバーグ監督の作品に色濃く反映されている。妹たちをティッシュペーパーでぐるぐる巻きにして作ったミイラ人間の物語、友人たち数十人を配置して作り上げた戦争アクション、そしてユダヤ人であることを「差別」という残酷な現実を通して思い知らされた高校時代の実体験――。これらが80年代から90年代にかけて映画に魅了された全世界の人々に向けて「エンタメ」として共有されていったのである。
私はスピルバーグ監督を「おもちゃ箱をひっくり返したような作品」を生み出す稀代のエンターテイナーだと考えていた。その感覚は間違っていなかった。しかし、エンタメの神様みたいな監督の実体験は、痛みと苦しみと葛藤に満ちていたことを改めて本作で知らされ、涙した。言い換えるなら、エンタメとして相対化しないと押しつぶされそうな悲しい体験の数々が、スティーヴン・スピルバーグという人間には常にまとわりついていたということである。
だが、彼は自身の悲哀を反転させ、人々を楽しませるタネとして用いたのである。そのことを本作でストレートに語ってくれたことで、私はさらに彼の作品のことがいとおしく思えてきた。単なる回顧主義ではない。今、改めて「あの時代」に見た映画の数々を思い起こすとき、新たな視点の下、作品が輝きを増してこちらに迫ってくるのである。
恐らく聖書の福音書を書いた記者たちも同じ心情だったろうと思う。イエス・キリストと共に歩んだ彼らは、師匠の「人となり」をつかみ取っていた。そして、その生涯を「救い主」という視点から描き出し、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネというそれぞれの福音書を生んだのである。
しかし、そこで描かれているエピソードの数々は、一人の人物、イエス・キリストから発出している。イエス・キリストは何を思い、願い、そして行動したのか。弟子たちの筆致を通して私たちは知ることになる。この体験(イエス・キリストを、福音書を読むことで知ること)は、スピルバーグ監督の少年時代の実体験を、エンタメ化した映画でスクリーンを通して見る体験にも似ているのではないだろうか。
私たちがもし、福音書のさらに「裏側」を知ることができるなら、それはすなわちイエス・キリストにさらに迫ることになるのではないだろうか。ここに「聖書神学」を学ぶことの意義がある。一人でも多くの人が、聖書を通してイエス・キリストを知り、そして、その背景を研究した「聖書神学」の成果を享受することで、イエス・キリストにさらに肉薄できるはずである。
本作は、福音書における聖書神学的な役割を、映画の世界において果たす稀有な一作である。スピルバーグ監督を愛する人が見ると、さらに彼のことが、そして彼の作品が好きになるだろう。それは、クリスチャンが聖書神学を学ぶことで、聖書をさらに読み込むことができ、イエス・キリストの内面に迫るようなワクワク感が得られるのと同じである。
ぜひ、スピルバーグ監督を愛する人、スピルバーグ監督にお世話になった人たちにこそ見てもらいたい一作である。
映画「フェイブルマンズ」は、3月3日(金)からTOHOシネマズ梅田ほかで全国ロードショーされる。
■ 映画「フェイブルマンズ」予告編
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