人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。(2サムエル6:17〜19)
イスラエルの民が神の箱をエルサレムに運び終わると、ダビデは主にささげ物をし、民を祝福して全民衆に食べ物を分け与えたと聖書に書かれています。
私たちの信仰生活は、何を目的としているでしょうか。神様を礼拝し、人々の祝福のために歩んでいるでしょうか。満ちあふれるほどに豊かな信仰生活とは、自分の繁栄に焦点を合わせることではありません。周囲の人々の祝福のために歩み続けることです。
ダビデはイスラエルの王として、孤独な道を歩み続けたことでしょう。民を祝福するために仕え続けました。私たちは、周囲の人々との人間関係が平和であるために、知恵のある言動を心がけているでしょうか。高慢は争い事につながります(参照・箴言13:10)。自らのプライドを守るために、自分の至らないところには目をつぶり、相手の非ばかりを攻撃していては、人間関係に平和は訪れません。
キリストは、私たちが目の中にある梁(はり)、つまり、家を支える木材のようなものには注意を払わないで、兄弟のちりにばかり目を向けることがないようにと教えています。本質的な原因となる、私たちの中にある大きな非をないがしろにして、相手の小さな過ちばかりを見ることは愚かな選択なのです(参照・マタイ7:3)。
このような考え方を組織に浸透させることは、リーダーの責任です。リーダーならば模範を示し(参照・1ペテロ5:3)、愛をもって真実を伝える(参照・エペソ4:15)ことが必要です。キリストは私たちのリーダーとして模範を示し、真実を語られたのです。
非常に残念ながら、私自身も争い事に巻き込まれたことが複数回あります。それも教会の中で起きた事でした。このような場合、おそらく当事者の多くは、直面した状況に困惑してしまい、静まって主の導きを求めるよりは、無意識のうちに自力で解決しようとしてしまうことでしょう。
私たちは教会内で起こる争い事に対して、どのように対処していけばよいのでしょうか。
1. 相手の主張を聞く
何よりもまず、相手の声に耳を傾けましょう。これだけで問題が解決される場合があります。相手に対する自分の誤解が解けることもあるでしょう。私は自宅の壁にヤコブ1:19の御言葉を掲げて、いつも見るようにしています。
2. ささいなことでも自分の非を認める
他人の粗探しをする代わりに、どんなささいなことでも自分の非を認めて、積極的に和解の姿勢を貫きましょう。私たちの目の中にある梁というのは、自分では見えにくいものです。たとえ相手に非があるとしても、完璧ではない私たち自身の非を認めましょう。聖霊様に導いていただくことです。これが、人間関係の和解につながるのです。
3. 愛をもって御言葉を相手に伝える
相手の反応を恐れて、なかなか語ることができないかもしれません。しかし、権威をもって相手に御言葉の真実を伝え、悔い改めに導くことが大切です。権威をもってとは、偉そうに低い声で、威厳があるように語ることではありません。むしろ柔和に、恐れには惑わされず、相手に語り通すことです。
ここで何よりも大切なのは、私たちの動機です(参照・へブル4:12)。自分が正しいことを示すかのように独善的な姿勢になっていないか、心から相手の祝福と成長を願っているかを点検することです。神様に心を整えていただきましょう。焦らないことです。
4. 継続すべき人間関係かを祈り求める
このことに違和感を覚えるかもしれません。しかし、人間関係は親密であればあるほどお互いに影響を与え合うものですから(参照・箴言27:17)、場合によっては距離を置き、自分の心を守ることも大切です(参照・箴言4:23)。そして、その人の祝福を祈ることです。
あなたが教会を導く立場にあるならば、場合によっては除名という選択肢も含めて、導きを祈り求める必要があるかもしれません(参照・マタイ18:15~17)。聖書は、クリスチャンの交わりを守ることを教えています。その弊害になる人を追い出すことも、時には必要なのです(参照・1コリント5:1〜13)。
今日、私たちはどのようにして家庭や教会、職場、学校などで人々の祝福になれるでしょうか。そのための言動は時に違和感を伴うものかもしれませんが、神様が喜ばれる平和の選択をして、歩み続けましょう。
GOD BLESS YOU!!!
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