ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」。(2サムエル1:14)
ダビデは、主に油注がれたサウルに敬意を示すという動機で、サウルを殺したと伝えたアマレク人の男を殺害しました。
神様の御心は、リーダーを立てることではなく、民と直接的な関係を築くことでした(参照・1サムエル8:7〜9)。私たちにとって何よりも大事なのは、神様との関係を大切にすることです。何をするにしても、人に対してではなく、神様のために最善を尽くすのです(参照・コロサイ3:23)。
リーダーの立場にある者にとって大切なことは、人を自分に従わせることではなく、人が自ら神様の御心を求め、前進できるように導くことです。
では、イスラエルの民の自由意思を尊重し、リーダーを立てることを許された神様は、現代の私たちに、リーダーに対してどのように振る舞うようにと教えているのでしょうか。
聖書では、リーダーにただ従うだけではなく、そのリーダーが喜びをもってリーダーシップを発揮できるように従いなさいと教えています。これを行わないのであれば、私たちにプラスにはならないとまで書かれています(参照・へブル13:17)。
つまり、リーダーの視点で物事を見て判断し、行動に移すことが大切なのです。ただリーダーの指示に従うだけの姿勢からステップアップして、リーダーがリーダーシップを発揮しやすいように物事を捉え、行動を選択し、前進し続けましょう。
キリストの御体である教会では、信徒それぞれに賜物が与えられています(参照・1コリント12:28、ローマ12:6〜8ほか)。リーダーシップの賜物を用いるように導かれている信徒もいますが、同時に、背後で仕え、助ける役割に導かれている信徒もいます。
例えば、物事を推進する賜物が与えられているリーダーが、憐(あわ)れみやもてなしの賜物には欠けている場合があります。自分に与えられた賜物がリーダーの不足を補うものならば、教会が建て上げられることに焦点を合わせてその賜物を積極的に用いましょう。
キリスト教会において、リーダーの役割を担う者たちは特別な存在ではなく、他の役割を担う者たちと同等の立場です。何よりも、互いに協力し合うことが大切です。私たちが仕えるのは、頭であるキリストなのです。
神様が教えるこの真実の成就を妨げるのが、ねたみやプライド、低い自尊心などでしょう。リーダーシップの賜物の中にもさまざまなものがあり、ギリシャ語では kubernésis と proistemi があります。前者は人々を導くよりも、物事を推進するような賜物を指します。
私には物事を推進する賜物が与えられています。一方で、人々を憐れみ、仕えることに関しては比較的弱いと認識しています。それは、さまざまなミニストリーに関わった経験からも明確です。
ミニストリーの立ち上げは良くても、しばらくして次のフェーズに移行するときに、リーダーシップの継承が必要になる場合もあります。自らの弱い点を補強するパートナーがいる場合には、パートナーと協力してそのミニストリーを前進させることもできるでしょう。
このとき、自分の賜物を十分に理解していないと、リーダーシップを手放すことに憤りを感じることがあります。自分の賜物を用いる場がないのであれば、次のミニストリーに移行することが適切な場合もあるでしょう。いずれにせよ、それぞれに異なる賜物を与えられたリーダーたちが、自分たちの賜物を十分に理解し、互いに仕え合うことが大切です。
教会の牧師やミニストリーのリーダーたちは、特別な存在ではありません。他の役割を担う信徒たちと同等の立場なのです。大切なことは、私たちの賜物や役割が何であるかを認識し、互いに仕え合うことです。そうすることで、リーダーもその賜物を発揮しやすくなるのです。
GOD BLESS YOU!!!
◇