青木保憲先生が執筆された『おばあちゃんの毒殺』という本の書評を依頼されたとき、「なぜ私に?」というのが正直な感想だった。というのも、青木先生とは面識がなかったからだ。同じクリスチャントゥデイに寄稿しているコラムニストとして、青木先生の執筆活動に関しては知っていた。でも、私は最近、全くコラムを書いていなかったので、自分に白羽の矢が立ったことに驚いた。そして同時に、自分にきちんとした書評が書けるのかという焦りも感じつつ、ページをめくらせていただいた。
実際に読んでいただければ分かると思うが、結果的にはきちんとした書評は書けていないと思う。でも、それでもよいのかなと開き直って書かせていただくことにした。それは、この私小説が、きちんとした言葉にはできない何か大切なことを伝えているからだ。だから私も、あれこれ書評の構成などは考えずに、読んで思いつくまま、感じたままに、あらすじのような、解説のような、感想のようなものを、心に浮かんだ通りに書かせていただくことにした。この書評では、筆者は「私」、主人公である少年時代の青木先生は「僕」として書かせていただく。一部、内容を含むので、純粋に小説を味わいたい人は、先に小説を読んでいただき、それからこの書評に戻ってきていただければと思う。
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おばあちゃんは、この私小説の主人公である「僕」に数珠を渡し、母はキリスト教会に「僕」を連れて行った。よくある嫁と姑の冷戦に、宗教が暗い影を「僕」の上に落とした。
おばあちゃんは、亡くなったおじいちゃんの思い出話をいつも語り、生きている人が死者を思い起こすことで、つながりを紡げると考える普通の日本人だった。教師だった故の厳しさはあるけれど、それでもお昼にはそうめんを作って孫の面倒を見、野球中継を見て「すごいね」と手をたたいて素直な感想を漏らす普通の人だった。
ところが、このおばあちゃんはキリスト教が大嫌いで、孫である「僕」にキリスト教信仰を持たないように、親に内緒で約束させた。こんなおばあちゃんを、母は全く理解できなかった。そして、おばあちゃんとしても、一家に耶蘇(キリスト教)の嫁が嫁いできたことを受け入れられないでいた。
しかし話が進むにつれ、なぜおばあちゃんが、孫にそんな約束をさせたのかがよく分かるようになっていく。おばあちゃんにとって、おじいちゃんとのつながりは、思い出話をすること、毎日お供物をあげること、線香をあげることだ。しかし、キリスト教徒である母は、死者にお供物をあげたり、線香をあげたりしない。
これは「私」自身、何度も経験してきた光景だ。恐らく、教会に通う多くの人も同様の経験や葛藤をしてきたことだと思う。もしも「僕」がキリスト教信仰を持ってしまうと、おばあちゃんとしては、おじいちゃんやおばあちゃんとのつながりから孫が断絶してしまうと思い、悲しかったのだろう。そして、その気持ちは「私」にも痛いほどよく分かる。一方で、母も自分の信仰を嫁ぎ先の皆から否定され、罵倒され、つらい思いをしていた。
恐らく、現在の青木先生であれば、母にもおばあちゃんにも、それぞれのパースペクティブを丁寧に説明して、誰も傷つかないように仲立ちすることができるだろう。でも、その時の「僕」はまだ小さな少年で、誰よりも大切な2人に挟まれて傷ついていた。
物語には、アンダーソン先生という米国の宣教師が登場する。彼は大きな体なのに、少年のようにすごく純粋で、「僕」のいた地域に溶け込んでいった。上手とはいえないカタコトの日本語で分け隔てなく誰にでも福音を語る彼は、いつしか多くの人に好かれていった。
そしてある日突然、この先生は、おばあちゃんと「僕」がいた家に訪ねてきた。おばあちゃんがキリスト教嫌いであることを知っていた「僕」は、慌てふためくが、結果は予想に反して、和気あいあいとしたものとなった。その掛け合いに読者はきっと「クスッ」となるだろう。
アンダーソン先生は大きな体と朗らかな性格の持ち主であるが、同時に非常に繊細で涙を隠そうとはしない漢でもあった。そしてとても強い、それは体が大きい故の強さとは全然異なる次元の強さだ。それは大粒の涙を流すほどの悲しみを、自分の使命と信仰の故に超克していく強さであった。
そしてもちろん、この強さは、自分の強さというよりは、神様によって与えられる強さであり、それは後に「僕」に引き継がれていく。小説の冒頭に登場する「僕」は幼く、弱く、傷つきやすい少年だった。アンダーソン先生の愛のある指導の下、キリスト教信仰に引かれていきつつも、おばあちゃんが嫌いな信仰を持つことに悩み苦しんだ。母に相談しても、母は「僕」の繊細な心の機微よりも、姑に対して有利な立場に立つことを目的として「僕」に信仰を受け入れるよう迫ってくる・・・ように思えた。
しかし物語を通して、幼かった「僕」は青年へと成長していき、本当の強さを得ていくようになる。それは、対立する相手を粉砕する強さではない。今はご存じの通り、ロシアとウクライナが戦い、各国が武力を提供している。この地上の戦いにおける力とは、相手を制圧する力であるというシンプルな理(ことわり)が、世界中の人々の目の前に突き付けられている。しかし、「僕」がアンダーソン先生を通して学んだ力、神様によって与えられた力とは、それとは全く異なるものだった。それは、相いれない異なる価値観、対立する人格、過去の傷やわだかまり、寂しさや悲しさ、いら立ちなどの感情、それら全てを包摂して、受け入れ、飲み干す力だった。
「僕」がそのように成長したとき、「僕」がキリスト教信仰を持つことは、「僕」とおばあちゃんの深い情愛を妨げるものでも、家庭に不和をもたらすものでもなくなっていた。おばあちゃんが危惧していたような孫との心の断絶は起こらなかったし、「僕」が心配していたようにキリスト教信仰を告白することでおばあちゃんに嫌われることもなかった。また「僕」は、自分の信仰が、嫁と姑の争いの政争の具とされ、そのことが母親を有利にし、おばあちゃんを傷つけることを許さなかった。さらに言えば、教会の堅苦しい役員の言いなりになって、頭ごなしに半ば強制されるように信仰告白することに反発し、とある行動を取ることになる。
この物語は、日本というキリスト教になじみのない地において、いかに相手のことを思いやる愛が必要か、知恵が必要か、そして内なる力が必要かを示唆してくれている。また自身は神道や仏教の伝統の中にいて、キリスト教などの異なる価値観に初めて直面する人々にとっても、多くの気付きを与えてくれるだろう。
さて、「私」は『おばあちゃんの毒殺』という本のタイトルにある「毒殺」というキーワードを、どのように青木先生が紡ぎ出したのか、原体験としてどのようなエピソードがあったのかをいちいち解説はしない。小説というものは、全てを解説すると味気ないものとなってしまうからだ。ぜひ本書を手に取っていただきたい。
最後に、「私」は青木先生とは面識はないが、非常に多作な人だという印象を持っている。自分などは、書けるテーマが浮かんだときにだけ寄稿する、非常にムラのあるコラムニストだと自認している。しかし青木先生は、ほぼ毎週のように精力的に寄稿していらっしゃる。またその内容は、一般の牧師先生たちが扱わないような時事問題から映画の評論まで多岐にわたる。そして今回、この私小説を読ませていただき、先生の執筆動機を垣間見たような気がした。
恐らく青木先生は、キリスト教になじみのないおばあちゃんのような多くの一般の日本人と、伝統的な信仰は持っていても、型にはまって、時に不寛容だと誤解されてしまう母のような信仰者の間を、何とか取り持とうとする働きをずっと続けられているのだと思う。このことは、以前クリスチャントゥデイでも書かせていただいたが、私が個人的に興味を持っている佐藤優氏の執筆動機と本質的に同じものだ。佐藤氏の本は一見するとキリスト教とは関係のないようなものが多いが、彼自身はこのように語っている。
私の著作は、例外なく、キリスト教について伝えています。(中略)私は、自分の仕事は、伝統的なキリスト教徒ではなく、日本で圧倒的大多数を占める世俗的な非キリスト教徒を対象に、イエス・キリストは救い主であるということを語っていくことだと思っています。(『神学の思考』298、301ページ)
キリストは、全能者である父なる神と、罪ある弱い人類の間を取り持つ Mediator(中保者、仲介者)となるべく、この地上に誕生してくださり、十字架の上でご自分の身を裂かれることを通して、そのことを成就してくださった。そのようにして私たちは、神との和解を一方的な恵みにより与えられた。そしてこの恵みを受けた私たちは、上述した両執筆家と同じく、皆それぞれが使命を与えられている。本書を通して「僕」が持ったのと同じ「心持ち」を、一人一人が感じられたらと思う。
■ 青木保憲著『おばあちゃんの毒殺』(2022年8月)
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