イエス様の弟子のトマスは、不信仰の象徴です。彼は実存主義者で、目で見、手で触らなければイエス様の復活を信じませんでした。そのトマスが、「私の主。私の神」と言って、イエス様が復活されたと信じました。
イエス様はトマスに、ただ「見ないで信じなさい」と言われたのではなく、十字架で釘付けられた手に釘の跡を見せ、その指の穴を見せられました。やっと、トマスはイエス様だと認識できました。
イエス様は、高いところから「ここまでのぼってきなさい。のぼってこれたら救ってあげよう」と言ったのではなく、トマスの居るところにまで降りてこられて、トマスが分かるように見せて、触らせました。
それでやっと信じましたが、それは信じたというより、分かって納得し、認めたというレベルです。イエス様は、その小さなトマスの信仰を受け入れ、それで良しとされました。
信じられないということの背後には、何らかの理由があります。心がかたくなになった背後には、傷や失敗、痛み、悲しみなどがあったのではないでしょうか。
小さな子どもが泣きやまず、暴れて騒ぎながら「バナナが食べたい」「チョコレートが食べたい」「アイスクリームが食べたい」と言って周囲を困らせているとき、お母さんは、この子が昼寝をしていなかったことに気付いて、抱きしめながら「後で食べようね」と言って寝かしつけました。
子どもが泣きやまなかったのは、お腹が空いていたのではなく、疲れて寝たかったのです。イエス様は、トマスが信じられない心の背後にある問題を知り、それを満たされたのです。その上で、「見ないで信じなさい」と言われました。
イエス様は、私やあなたのすべてをご存じであり、それを知った上で、その必要を満たしてくださり、成長できるように導いてくださるのです。
今日、イエス様のもとに行きましょう。イエス様はあなたを受け止め、必要を満たし、問題を解決させてくださり、その上で、成長させてくださるのです。
イエス様はあなたを愛しています。
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