朝食の支度を整えて、夫が起きてくるまでの間、花嫁道具として持ってきた古びたエレクトーンを弾いていました。AmとFの4連符を交互に弾いていると、いつしか作った歌がよみがえってくるようでした。それはいつしかつらい時代に作った歌でありました。
唇は、その歌を口ずさみ始めました。
♪いつか苦しんだ道が
私の中で バラバラと
心を砕き続けて壊した
今もまだ 私の中はバラバラとして
はがれては 崩れ落ち 割れて 一つにはなりはしない
神だけが 私を愛していると 教えられてまた
感じられてまだ 生きているけど
バラバラの私は 怪物みたいで
人を傷つけ 呪いに夢中
このままじゃ 生きちゃいけないって思ってる
神様は教える みんなバラバラ
それでもなお 生きなくてはならず♪
心の中に、あの頃私の胸に燃えていた怒りの炎の残り火が、チリチリと赤く灯り出し、胸に痛みが生じました。すると、夫が「朝からご奉仕お疲れ様」と声をかけてきたのです。私は手と歌をやめてほほ笑みました。「おはよう」
この夫は面白い人で、私がエレクトーンを弾くのも歌うのも、神様に対するご奉仕として「お疲れ様」と労わってくれるのです。普通の男性であったら ‘遊び’ と一蹴に伏されることも、神様へのご奉仕として、大切にしてくれるのです。
夫はポットにお湯を沸かし、私のために朝のアイスカフェオレを入れてくれました。自分は仕事に行くというのに、ほとんど一日パジャマのままで、だるい体を横たわらせるばかりの私の弱さを思いやり、少しでも労わろうとする人なのです。
私は毎日夫に謝ります。「何もできない妻でごめんなさい」。夫は驚いた顔をして言ってくれるのです。「何を言うんだい。料理もして、家事も頑張ろうとしてくれるじゃないか。君がいるから僕は頑張れるんだよ」と。私の目は伏し目がちになり、料理なんて本当は、宅配の「簡単キット」ばかりだし、掃除だって自動掃除機のボタンを押しているだけ、と自分に対してあきれます。それでも、幸せであることに違いはありませんでした。優しい夫を与えられたことに感謝するばかりです。
夫が作業着に身を包んで家を出ると、また「バラバラ」の歌がよみがえってきました。次第に、部屋の家具の一つ一つ、壁までもがリズムをとって歌い出し、それは耳をつんざくほどになりました。
群青色に紫がにじんだ、闇というには鮮やかな色彩が部屋中ににじんでゆきます。この色はすみれ時計のすみれ色。私の宇宙の色。すみれ時計はその大きな姿を現して、大きな針をさかのぼらせて「おいでなさい」と私を誘います。なぜか、今日のすみれ時計の旅には、イエス様が共に来てくださらない気がしました。「イエス様」。私は主を呼びました。すると、「ひとりでゆきなさい。あなたがそうしたいのだから」。そう言うイエス様の声が聞こえるようでありました。
*
私は小さな宇宙、私の閉ざされた世界の中で、一冊の本を読んでいました。それは、『ユダの星』という本でした。私は焦がれるほどに強く、この「ユダ」を愛していました。この世界の嫌われ者。キリスト教会では悪人、地獄行きとののしられているこのユダが、私は愛おしくてたまらなかったのです。
この本、『ユダの星』には、キリスト教の聖書は改ざんされてあるもので、改ざんされる前の聖書には『ユダの星』が記されていたのだとありました。そんな聖書なら、信じられると思いました。悪人中の悪人、世界に名高い神様とされる ‘イエス様’ を銀貨30枚で売り、十字架の死へと導いた、この世界中の嫌われ者のユダ。そんなユダでさえ、愛し救う神様こそ私の求める「神様」でした。
なぜなら、「ユダ」は私。罪深く、人を呪い、素晴らしいイエス様にすら焼きもちを焼く、それは私にそっくりな貧しい心の持ち主なのですから。
『ユダの星』に記されている「イエス様が言った」とされる言葉を、声に出して読みました。
「ユダよ。
お前は高くあげられる。
お前にこそ、栄光の七つの星を与えよう。
ユダよ。
私のもっとも愛し、私のもっとも近くにいるものよ」
「イエス様・・・」。私はユダを愛するが故、‘この本にある’ イエス様を受け入れました。それは、こんな私をも、愛し、赦(ゆる)し、高く上げてくださる、あまりに甘美な神でした。
私の心は、怒りの炎で燃えていました。私を排斥するかのように、この小さな部屋に閉じ込めた、行き場なき社会に。ここで私が苦しんでいるというのに、まるで無視して、幸せを謳歌(おうか)して生きるすべての人に、精神病者は太るくらいいいだろうと、私を醜く太らせた、製薬会社や精神医学に、怒りを燃やしていたのです。
そもそも、私が病気になったのは、精神科のせいではあるまいか。そんなことさえ考えるようになっていました。どんなに人と違っていたって、ありのままの私で生きられる世界があったなら、私はこんな薬を飲み続けることもなかったのだ、と。
悔しさに、怒りに、憤りに、心を熱い炎で燃やしていました。私が地獄に行くくらいなら、この世界を道連れにしてやろう。それほどの呪いに身を焦がしていたのです。
ですから、この『ユダの星』は、私の救いでありました。悪人の悲しみ、悪人の涙、悪人の言われようのない寂しさに、目を留めてくれている気がしたのです。
なんということでしょう。私はこの『ユダの星』をきっかけに、聖書に興味を持ったのです。
まことにあなた様は、天の高くにお住まいになっておられながらも、この地にまで降りられて、また黄泉(よみ)にまで下られた、どんな低い所にまでも来てくださる、慈しみ限りない方でありました。このような私の心の闇の深みにまで降りてきてくださり、忍耐強く教え続けてくださった、まことの教師でありました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、その手と足の、肉を破き骨を砕く太い釘に刺し通されながらも罪びとを憐(あわ)れまれた、イエス様の愛の血潮の憐れみを私も受けることとなったのです。
しかしそれはまだ少し先のこと。私は聖書を注文し、届くことを心待ちにしながらも、キリスト教というものには反発を持っていました。「あんな偽善的な人の輪に私は加わることはないでしょうがね」。そんな高ぶった気持ちで、私こそが聖書を理解してみせようと心をほてらせていたのです。
私は炎のごうごうと燃えたぎる世界の中で、小さな部屋の支配者でした。まるでこの世界に降り注ぐ見えざる炎は、私の命に従っているかのようにさえ思えていたほどでした。この小さな部屋にありながら、この世界にさえも君臨しようとする、恐ろしい王の心を芽生えさせていたのです。
*
すみれ時計の針に手をかけその情景を見つめながら、私の心は震えました。手のひらに、イエス様の血がついている気がしていました。ユダと心を一つにし、ねたみの故にイエス様を殺したのは私でしかない。そんな思いが迫りました。自分が恐ろしくありました。イエス様をこの手で殺めた感触にわなないていたのです。
「わたしはその罪びとのかしらなのです」(1テモテ1:15)
ただわななくばかりです。自らの罪の深さに立ち上がれないほどでした。私の十字架は重すぎて、背負うことができないほどでありました。罪の重さに耐えかねて、つぶれてしまいそうなのですから。
膝から崩れ落ち、気付けば新居の部屋の隅で、おいおいと泣いておりました。目を上げると、窓に飾った木彫りの十字架が光を浴びて、十字架の影が部屋一帯に広がりました。私をも覆うように広がるのです。イエス様の言葉が響くようです。
「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」(ルカ22:19)
「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22:20)
「しかし、罪の増し加わったところに、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)
聖書にある通りです。己の恥、罪を覆われた者は何と幸いなことでしょう。
「幸いなことよ。その背きを赦され、罪を覆われた人は」(詩編32:1)
ダビデも喜びにあふれて歌っています。その歌を今こそ歌いましょう。
病者の私も、結婚をして、社会的体裁は整ったと言えるでしょうか。安心して住める家も、夫は与えてくれました。好きな家具を並べ、大事なエレクトーンだって置くことができました。食べることにも飲むことにも、飽くことができるほどです。
しかしそれがなんだというのでしょう。私はみじめな者でしかありません。荒布をまとって灰をかぶって、悔い改めの祈りをし、座しているべき罪びとでしかありません。きれいな着物や素敵なお家や財産も、もろとも燃やし尽くされる哀れな誇りとならないように、お与えにならないようにしてください。ただ、あなたの赦し、救いだけが、私の命のうちに輝き、唯一尊いものであるのですから。
気が付いたら、夫が帰ってくる時間です。今日も私はほとんど何もしていません。もちろんパジャマのままでした。
冷蔵庫から宅配の「簡単キット」を取り出して、重たい体を引きずって何とか2品作ります。この力なき者、無用な者、冷たくあしらわれて捨てられても何もおかしくない者に、神様は憐れみを与えてくれました。
「今日もごちそうだな!」こんな食事に、そう喜んでくれる夫・・・それは身に余る憐れみでしかありませんでした。(つづく)
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、東埼玉バプテスト教会の母教会である我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫4匹と共に暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。