数年前、小学5年生の男の子が自転車で踏切を渡ったところ、電車と衝突し、はねられて死亡する事故が起こりました。その踏切は、警報機と遮断機のない「第4種踏切」でした。
亡くなられた男児の親御さんや親族、友人知人の方々に神様の慰めをお祈りいたします。私が小学校3年生のとき、生まれ育った東京都品川区中延の東急池上線で、警報器はあるけれど似ている「第3種踏切」があり、この事故とほとんど同じシチュエーションに直面しました。私の場合、渡ったのが1~2秒早かったので、間一髪で電車と衝突せず、はねられることがありませんでした。
偶然だったのか。それとも、神が守ってくださったのか。何十年も苦悶(くもん)し、悩み、考え続けてきました。私の出した結論は、「神が私を守ってくださった」との確信です。すぐに「神が守ってくださった」と確信できなかったのは、「神が私を特別扱いするだろうか!?」という疑問と、世の中には、きっと私と同じようなシチュエーションで、間一髪で事故に遭って亡くなった人がいるという現実があるからです。
生と死は紙一重です。1~2秒の違いで今、私がここに存在しているというのは、とても重い現実です。私の命が間一髪で守られた出来事は、これだけではありません。幾つもありますが、特に印象深い出来事があります。
18歳のとき、バイクで東京の環状8号線を直進していました。急に目の前で右折車が曲がってきました。すぐ隣を走っていたバイクは、その右折車と激突して即死しました。私は間一髪避けて、事故に遭いませんでした。
この事故を目の前で目撃し、大きな爆発のような衝突音を聞いたことは、心に焼き付けられて人生の深い傷となり、一人になると苦しみ悶え、悩み続けました。しかし最後は、「神様が私を守ってくださった」という確信に変わり、感謝の祈りをしました。
神様は私にもう一度、さらにもう一度、命を下さった。その与えられた命に、大きな重みを感じます。
聖書には「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう」(2コリント12:15)と書かれています。「この命を使って、神様と人々のために貢献していかなければならない!」思い出すたびに、心で決意します。
20歳のとき、街で声を掛けられて芸能界にスカウトされたことがありました。神様にお祈りすると「牧師になって、多くの人に神の言葉を語りなさい」という明確な導きを感じました。私は、芸能界への道を諦め、神学校に入学して牧師になる道を選びました。今でも「この決断ができて良かった!」と思います。
今日もこのように皆さんと、文章を通して心を通わしながら神様の言葉を伝えることができて、本当に幸せを感じます。神様は生きておられて、今でも働いておられます。あなたにも、私が経験したような間一髪で守られた経験はありますか。何十年も生きていたら、1度や2度はそのようなことがあってもおかしくはありません。
すぐに思い出せなくても、大なり小なり、危機一髪の経験をされているのではないでしょうか。それを、偶然と考えるか。神の守りと考えるか。その答えは、あなた自身が出さなくてはいけません。
ある無神論の人が、神社仏閣に行ってこう祈ったそうです。「もし神様がいるならば、私に分かるように教えてください」。そのとき、心の中に不思議な安らぎと懐かしい気持ちが湧き上がってきて、子どもの頃、クリスマスに教会に行って賛美歌を歌ったことを思い出したそうです。この方は後日クリスチャンになりました。
この文章を読まれる方の中には、無神論の人も、クリスチャンではない人もいると思います。「そんなことがあるのだろうか?」「偶然じゃないの?」と思われたでしょうか。聖書は、「神は今も生きておられる」と教えます。
あなたも、今日祈ってみませんか。「神様、もし神がおられるなら、私に分かるように教えてください」と。そして、与えられた命を大切にし、命を、与えられた使命のために使い尽くしたいと思います。
「使命」は「命を使う」と書きます。生活のために仕事をするとか、野心を抱いて「見返してやるぞ!」とガンバルような小さなことではなく、「このことのためには命を懸けても惜しくない!」と思えるほどのことを使命と言うのではないでしょうか。
人の真の幸せは、このことのために命を懸けても惜しくないほどの使命を発見し、その使命のために命を懸けることだと思います。あなたには、あなたが考えるよりもはるかに重く大きな使命が与えられているのです。
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