主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ」(エレミヤ31:2)
大変残念なことに、世界の各地で紛争が絶えることはなく、住む所を追われ、さまよっている人々のニュース映像に心が痛みます。以前、難民だった方とお話しする機会がありました。「一つかみの土でさえ自分のものではないというつらさや厳しさは分からないでしょう」と言われました。私たちが外国に行くときには、日本国のパスポートを持っています。そこには日本の国民を保護するようにという外務大臣の申請が記されています。世界のどこに行っても自分の母国に保護されていることになります。もし母国が崩壊したら、単なる侵入者か侵略者として取り扱われるかもしれないのです。
イスラエルの人々は歴史上2回、母国を失い、追放されるという悲劇に遭遇しています。1回目は北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされたときです。アッシリアの目的は国土搾取だったため、一部の人々は捕囚として連れていかれましたが、残った人々は国外に追放されました。そして二度と祖国に帰ることは許されませんでした。2回目はAD70年にローマ軍の圧制と横暴に耐えかねて蜂起したときです。エルサレムは完全に破壊され、ローマ帝国の権威が及ぶ地中海世界全域のどこにも留まることが許されず、ユダヤ人たちは世界の果てに追放されました。
祖国を失った人々はどこにも安住の地はなく、流浪の民として迫害と差別を受けなければなりませんでした。
2700年前に北王国イスラエルを追放された10部族と、AD70年にローマに追放されたユダヤ人たちは東の果てにある日出国を目指したといいますと、眉唾ものだとか、空想の世界と一笑する人が少なくありません。しかし、イスラエルにはいざというときには「東を目指せ」という言い伝えがあったといわれます。イザヤ書にも「それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ」(24:15)という一節があります。
中近東とアジアを結ぶルートは、陸のシルクロードと海のスパイスロードがありました。イスラエルのアカバ湾とインドを結ぶ交易ルートはソロモン王の時代に確立されています。インドまで来れば、中国や日本と結ぶ交易ルートがあります。陸のシルクロードを経由した人々は一気に東を目指したのではありません。途中で長期の定住を繰り返しながら数十年かけて移動しています。シルクロード沿いに十部族の末裔が点在していることは実証されています。
流浪の民が移動するということは、決して容易なことではありませんでした。自分たちの家族は自分たちで守らなければならなかったのです。いつどこで妨害されるか、山賊に出会うか予測がつきませんので、武術を身に付けなければなりませんでした。また、機動力のために馬も使いこなしていたと思います。荒野のノマドや騎馬民族にも少なからず影響を与えたということも想像できます。シナイ半島に行きますと、今日でもベドウィンはテントで移動生活をしていますが、家族を守るために勇猛果敢であることで知られています。ヨルダン国王が軍隊を強くするためにベドウィンに協力を求めたといわれています。私も40年前にベドウィンのテントを訪れた経験があります。テントの中央部に家族を守るための小銃が置かれていましたが、とても友好的で快く受け入れてくれたという印象がありました。
ユダヤ人たちには石工や牧畜、酒造、織物などの技術があり、どの地域に行っても生活する術を持っていましたが、訪れた地で新しく技術を習得することもありました。やがて日本に到達したときにこの技術が生かされ、伝統的な技能の元になったと考えられます。
なぜ、ユダヤ人が東の果ての島国を目指したのかということですが、どの国に行っても侵入者扱いされるのに、日本では仲間として受け入れられ、苗字が与えられ、土地まで与えられました。永住の地となり、同化吸収の道を選んだのではないかと思います。
すべての宗教の根源はモーセにあると考えます。モーセがシナイ山で石板に刻まれた十戒を神様から授かったことにより、宗教が始まったと私は思っています。仏教も神道もイスラム教も、ユダヤ教とキリスト教の影響を受けています。神道の中にユダヤ教やキリスト教の名残を見ることができます。神社の形態、お祭りやおみこしの存在、神主の呼称などです。「三柱の神」という表現は景教の三位一体の神からきていると思います。諏訪大社のイサク祭りや御柱祭などは、ユダヤの伝統を引き継いでいるとしか思えません。明らかにユダヤ教の影響が残っていると思われるのに、その信仰の中身がはっきりと見えないのは不思議です。
ユダヤ教やキリスト教の精神は、日本文化の中に吸収されていて脈々と受け継がれてきていると思います。キリスト教とはまったく縁のない日本のはずだったのに、ザビエルの宣教はすんなりと受け入れられ、回心者が続出しました。ザビエルに続く宣教師もあり、宣教が続けられましたが、わずかな期間のうちに総人口の5分の1がキリシタンになったともいわれます。受け入れる素地が日本文化の中に生きていたというのは言い過ぎでしょうか。しかし、鎖国政策と禁教令により、まったくキリスト教の道は閉ざされたはずですが、明治になり禁教令が廃されると素晴らしいキリスト信徒が続出します。2人のクリスチャンが英文で自分たちの信仰を表明し、世界から称賛されます。新渡戸稲造の『武士道』と内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』です。各国の要人たちも必読の書として推薦しています。ある要人は「この本の中には脈々と受け継がれてきた古来の伝統精神と深い哲学がある」と評しています。
欧州のユダヤ人たちがナチスの迫害によりどこにも行き場のない中で、日本だけは受け入れてくれることが分かり、リトアニアの杉原千畝を訪ね、6千人がビザの発給を受けて救われました。シベリア国境で凍え死にしようとしていた2万人のユダヤ人に救いの手を差し伸べたのは樋口季一郎でした。この働きをヒトラーは非難しましたが、東条英機は「政策と人道は別だ」と言って認めました。先人たちの生き方の中に、日本の素晴らしい精神が生きていると思います。
ユダヤ教やキリスト教は、日本文化の中に吸収されたけれども消滅したわけではないと思います。時が満ちるまで、神様が隠されているのではないでしょうか。東の果てにあるこの島国より、やがて第二の内村鑑三や新渡戸稲造が現れ、世界に発信し、リードしていく時が来ると信じています。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)
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