そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。(イザヤ書58:9)
昔、薩摩藩には郷中(ごじゅう)教育制度がありました。士族のボランティアが先生となり、近隣の子どもに読み書きを教えていました。また、先輩が後輩に教えるというシステムもありました。学びたいという意欲のある人には身分や立場などは一切問われませんでした。
早朝に学問を学び、昼間は「山坂達者」の掛け声のもと、野山を駆け回り、武芸の練習により足腰を鍛えていました。用水路などがあるときは飛び越えていましたので、幼い子どもが尻込みして泣き出すと「泣こよかひっ飛べ」の掛け声をかけていました。「泣くよりも思い切って飛びなさい」という意味の鹿児島弁です。鹿児島弁では強調したい言葉があるときは「ひっ」という語を付け加えるようにしています。
薩摩ではこの制度のおかげで、よその地方に比べて識字率が高く、貧しい家庭の子が学問を好きになって立身出世していくケースが少なくありませんでした。
また、神社には掲示板があり、3つのキャッチフレーズが掲げてありました。1)負けるな、2)うそをつくな、3)弱い者をいじめるな。西郷さんも大久保さんも若いときは先生役をしていましたので、多くの若者に慕われるきっかけになりました。明治維新には薩摩から多くの人材が起用されましたが、江戸時代の郷中教育により学びのレベルが高かったことも一因なのではないかと思います。
コロナ渦で仕事が思うようにできないとか、働く機会を奪われて、収入の道が閉ざされてしまって途方に暮れているという話も耳にします。生きていくことが大変厳しい時世です。しかし、泣いているわけにはいきません。思い切って飛んで、前に行くしかありません。幸いなことに、主なる神は私たちの先頭になり、しんがりになって私たちを後押ししてくださいます。
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46:4)
今から40年前、教会の弟子訓練プログラムを学ぶために米国に行こうとしたとき、3カ月の滞在を越えるため留学ビザが必要だと言われました。十分なお金もなく、ただ米国の教会からの招待状だけしか持っていませんでしたが、領事館で必死に祈り、領事に懇願したところ、特例としてビザを発行してもらいました。米国に行ってからも何度も立ち往生することがありましたが、その度に祈ることで道が開かれていきました。自分の歩んできた道を振り返ると、今更ながら冷汗が出る思いがしますが、主なる神がどんな時にも背負っていてくださるのだということが分かると納得できます。
米国のチャーチーズアライブの主催者であるハワード・ボール氏はとても素晴らしい人格者で、その講演も力にあふれていました。米国の牧師が言うには、ボール氏が素晴らしいのは当然だが、その奥さんであるバーバラ夫人は魅力的な人で、米国の理想の奥様と言われていると教えてくれました。そのような話を聞くと、ぜひ会ってみたいと思ったのですが、なかなか機会はありませんでした。
ところがサンバルディーノでボール氏にお目にかかったときに、「自分の家に寄ってみるか」と声を掛けられ、ついて行きました。ご自宅にお邪魔すると、バーバラ夫人が快く迎え入れてくださいました。
そして「コーヒーを飲みますか」と声を掛けてくださったとき、同行者の人が「いりません」と言ってしまったものですから、私も「いいです」とつられて言ってしまいました。本当は飲みたかったのですが、偉い人の手前でもあり遠慮しました。
そうするとバーバラ夫人が「飲んでも飲まなくても一応コーヒーは用意しときますね。欲しくなったら、いつでも声を掛けてくださいね」と言われました。私はその応答を聞いて驚きました。米国では「いらない」と言うとさっと引っ込めますので、遠慮なんかしていたら、何ももらえなくなります。米国の男性たちが理想の奥様と呼んでいる理由が分かったような気がしました。しかし、このような奥ゆかしさは日本の牧師夫人たちも備えています。だから日本の女性は外国の人に人気があるのかと気付かされたひとときでした。
「泣こよかひっ飛べ」の精神で、本来なら得ることができない学びの機会が与えられ、直接お目にかかるのが難しいような人にも会うことができました。これはすべて主なる神が背中を押してくださったからだと思います。これからも尻込みしてしまいそうな状況が続きますが、主なる神が共にいてくだされば前に飛び出していけます。
打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。彼らの王は彼らの前を進み、主が彼らの真っ先に進まれる。(ミカ書2:13)
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