私は、高校を卒業すると同時に、全寮制の神学校に入学しました。それから17年間神学の学びを続け、博士号を頂きましたが、まだまだ学ばなければいけないことがたくさんあるし、本当のところ、学んで知ったのは「無知の知」でしかありませんでした。
「無知の知」とは、ソクラテス哲学の基本にある考え方ですが、「知らないことを自覚する」という意味です。しかし、それが分かってこそ、人は学び、探求し、教えを乞うことができるようになるのかもしれません。
神学を学んで感じたのは、神学はどれも不完全だということです。それなのに、ある神学を通して聖書を理解しようとしていることに気付きました。神学は聖書を理解する助けにはなりますが、神学によって聖書を解釈するのではなく、どんな優れた神学であっても、神学は聖書の下にあるべきです。もし神学に誤りを見つけたら、聖書によって神学を再構築していくべきです。
神学の2つの潮流は、「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義」です。この2つの流れは、同じ結論には達しないことになります。カルヴァン主義は「人の救いは、神の創造以前より定めており、キリストの購(あがな)いは選ばれた者だけに与えられる」と考え、アルミニウス主義は「人の救いは、神の恵みに対する信仰による応答によるもので、救われる者、救われない者が前もって定められているのではない」と考えます。
しかし、聖書の至る所で「神の選び」と「人の自由意志」が同時に書かれていることを知りました。「どちらが正しいか?」ではなく、どちらも聖書の教えです。ただ、救われる者と救われない者が定まっているという考え方には同意できません。例えば、イエス様はイスカリオテのユダを最後まで救おうと手を差し伸べ続けましたが、ユダはイエス様の愛を最後まで拒んで、自害してしまいました。イエス様がユダを救われない者として選んでいたと考えるより、ユダが最後の最後であっても神の恵みに応答したとしたら、ユダは救われたと思います。
聖書には、人が救いに至るための言葉が書かれています。神からのラブレターです。聖書は預言の書でもあります。今に至るまで、預言の多くが成就されてきましたし、これから、すべてが成就します。何より、誤りなき神の言葉なのです。
私は、信仰の先達が研究し、学び、構築した神学に対して、心からリスペクトしています。しかし、聖書と神学は同列にはありません。いかに優れた神学であったとしても、聖書の権威の下にあるものです。聖書は別格であり、絶対的な書物なのです。
ものすごい長い詩篇として知られる119編の169節には「御言葉をあるがままに理解させてください」とあります。キラッと輝くような言葉です。聖書を、神学や個人の体験、感覚、経験などで知るだけではなく、あるがままを知ることができるように祈っていきましょう。
その土台となるのは、「無知の知」から始めることてす。「分かっている」と思った瞬間から、聖書をあるがままに理解するところから離れてしまうものです。仮に、知識として理解し、分かっていても、その深いところを全身全霊で味わい、体験し、理解することを求めたいものですね。そこにいのちがあり、慰めがあり、成長させてくれる力があるのです。
◇