今よりもっと幼い頃のことを、タイジはよく覚えていました。
タイジは里山に囲まれた田舎町に生まれ育ち、自然が好きな夫婦のもとで育てられ、幼い頃から田んぼで泥んこになってザリガニ採り、木登り、野だぬきと追いかけっことやんちゃのし放題で育ちました。世界は目くるめく色彩でタイジを取り囲み、光の粒のとりどりの色を数えても、同じ色は一つとしてありません。
すすきを手に持って野山の探検、毎日が冒険。家に帰ればお母さんが待っており、おいしいご飯を作ってくれます。「帰ったぞう」とお父さんの声で玄関が開くと、一緒にお風呂に入ってくれます。そして、夜はお父さんとお母さんの間で、ぬくぬくとお布団に入り、楽しい夢の時間が待っています。眠りに落ちる間際に思ったものです。「こんな日が永遠に続くんだ。生まれてくるってなんて素敵なことなんだろう」
そんなある日のことでした。タイジの通っている「野遊び幼稚園」に、おじいさんが‘センソウ’の話をしに来るというのです。園児たちは野山の広場に座り、おじいさんは切り株に座ってお話を始めました。その話はあまりにも衝撃的なものでした。夜になると飛行機の大軍がイナゴのように押し寄せて、爆弾を雨のように降らせ、家々は燃えて人がたくさん焼け死んだというのです。食べるものもなく、子どもたちは畑の野菜を盗んでかじり、飢え死にした子どももたくさんいたというのです。
タイジはあまりの驚きに、目を丸め通しでありました。ここがそんなに恐ろしい世界だなんて、少しも知らなかったのです。そして「死」というナゾが頭から離れませんでした。
タイジは身震いして夕焼けに染まってゆく空を見ました。空を飛ぶカラスたちが爆弾を降らせる飛行機に見え、一目散に走りました。「どうしたの?」慌てて走るタイジの前に、お迎えに来たお母さんがおりました。「夜に爆弾が降るんでしょう? もう怖くて眠れないよ?」
お母さんはタイジを抱き上げ「戦争の話を聞いたのね。それは怖かったわね。でももう戦争は終わったの。もう爆弾は降らないのよ」とほほ笑みました。タイジの恐怖はそれでも消えませんでした。「人は死ぬの? 死ぬってなあに?」
お母さんは困ったようにほほ笑んで、「病気になったり年を取ると、みんな死ぬのよ」と言いました。「死んでどうなるの?」お母さんはまっすぐに、「死んだらお墓に入って、生きている人たちを見守るのよ。お墓参りに行ったことがあるでしょう? ひいじいちゃんやひいばあちゃんだって、私たちを守ってくれているでしょう」と言いました。(あんな所にとじこめられるの? もう野遊びもできないじゃない。)タイジの瞳は震えました。
その日から、タイジの瞳には暗い影が宿りました。(いつか終わるんだ)そう思って見つめた夕焼け空が涙でにじみました。「死にたくない」
タイジは死の支配する暗闇の人生で、光を探し求めました。永遠の命・・・それを求めて人類はもがいて生きてきました。きっとどこかにあるはずだと人間の頭を凝らして探してきたことでしょう。しかし、この宇宙や大自然をお造りになった神様は、永遠を生きており、死ぬことも病になることもない力を持った方です。眠らずに私たちを見守り、私たちが神様に帰り、共に永遠に生きるよう、願っておられるお方です。その方を知ったとき、人にとって死も病も本当に恐れるものではなくなり、神様と共にある永遠の安息の中に入れられるといわれます。
神様を知る・・・それは断たれている神様との絆を‘愛’によって回復するということです。その回復のために、神様の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださったと言われます。
タイジはその年の幼稚園のクリスマス、イエス様の降誕劇を演じ、3人の博士のうちの1人を演じました。それは劇の本番の時、馬小屋でお生まれになったイエス様にささげものをして深々と頭を下げているとき、心は稲妻に打たれるようにしてイエス様が真実の唯一なる神であり、この世界に来られたことを悟ったのです。
私たちの祖先のアダムとイブは、神様と共にそれは麗しい楽園で永遠の約束のもとで生きていたといわれます。その麗しい、神様との親と子の関係は、神様への裏切りによって断たれてしまいました。私たちはその子孫であるがゆえに、永遠に生きることもできず、また病や毎日の労苦に疲れ、いつか来る死におびえなければいけません。
神様は私たちが神様のもとに帰り、親子の関係に戻ることを熱望して、助けを何度となく与えてきました。野に咲く花もどこからともなく吹く風も、光のさざめきも、神様の導きでありましょう。それは神様を知るために、神様が私たちに与えられたものなのですから。
「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか」(マタ23:37)と神様がおっしゃるとおり、神様は最後まで私たちを招かれました。独り子であるイエス様まで、私たちに下さるまでに。
タイジはお母さんにねだって、町はずれの教会に連れて行ってもらうようになりました。教会の日曜学校で、聖書のお話に熱心に耳を傾けて、聖歌を歌うようになりました。同じ神様を信じる友達にも出会いました。
牧師先生から教えられる聖書のお話は、あまりに素晴らしいものでした。神様はことばでこの世界をお造りになられたこと、自分たちの祖先は神様と共にエデンの園に暮らしていたこと、神様との関係を断って、自分の力で生き始めて、今のこの世界があること。死の理由、病の理由、世界の苦しみの理由がすべて分かったような気がしました。
家に帰ると、お母さんとお父さんに伝道です。お酒を飲んで上機嫌のお父さんは、タイジの話に耳を傾けながらも、「でもお父さんは進化論を信じているんだ、神様が7日で世界をつくったとは信じがたいな」と返します。
「神様にはできないことはないんだよ。なんでそんなことが分からないの?」タイジはいら立ちます。「じゃあお父さんは死んだらどこへ行くと思うの?」身を乗り出して聞きました。「死んだら・・・無だな。お父さんの考えでは」。タイジは目を丸めました。(無になるなんてそんな恐ろしいこと、どうして耐えられるというのだろうか、お父さんは正気なのか?)と思ったのです。
「お母さんは、死んだらみんな仏さんになると思ってるのよ」。料理を運びながらお母さんも話します。「死んだらみんな仏さんになるというわ。そして私たちを見守ってくださっているから、こうして無事に生きられるのじゃないかな」
タイジは肩を落として自分の部屋に戻りました。お父さんもお母さんもいい加減だと思ったのです。ろくに考えていないからそんな曖昧なことで納得しようとしているのだ、と。そしてとても悔しかったのです。聖書のお話は、そんな曖昧さなんてなく、この世界の理由、人生の理由、死の理由も、すべて書かれているというのに、それをうまく説明できない自分にいら立って仕方ないのです。タイジはいら立ちと悲しみのうちにお布団をしゃぶりながら眠りに落ちてゆきました。
そんなタイジを、お母さんの胎のうちに形づくられているときからずっと見守ってきたダニエルは、タイジを今も変わらずに見守り続けておりました。タイジのいら立ち、葛藤を憐れんで、ダニエルは神様に祈りました。ダニエルは、タイジのうちにイエス様と共に十字架を負う覚悟を見て、タイジに語り掛けました。(あなたはお父さんとお母さんのためにすべてをささげることができますか?)タイジは夢うつつに答えました。(お父さんとお母さんが神様と共に生きて、永遠に生きるためだったら、何を取られてもかまいません)と。
ダニエルはその覚悟を憐れんで、タイジを深く抱きしめました。そして、タイジの体に一つの病を与えたのです。タイジはうつらうつらとしながらも、心臓に一つの病が与えられたことに気付きました。そして、涙をこぼして言いました。(僕には神様に差し出せる知恵もないから、この体をささげられたことはうれしいことです。)タイジは自分の体がイエス様と同じように、十字架につけられてゆくことを感じました。お父さんとお母さんへの愛のため、神様に己をささげられてゆくことに、悲しみと喜びを感じたのです。タイジの心は純粋な愛で満たされてゆきました。自分の中にこんな愛が眠っていたなんて気付きもしなかった、それは神様から与えてもらった愛なのだと思いました。
タイジはこの夢うつつの出来事を、ほとんど覚えておりませんでした。しかし、わずかには覚えていたのです。ですからそれから1カ月後、体の不調に苦しんでも‘何か意味がある’ことを信じ続けていられました。お父さんとお母さんはてんやわんや。毎日の病院通いに入院の手続き、心は不安と焦りでいっぱいでした。
お父さんとお母さんの心はくじかれました。大切な一人息子の成長をこれからも見守って、さして人生の嵐にあう必要もなく、共に楽しく生きてゆくはずだったのですから。突然の息子の病の発覚に今まで描いていた計画表がびりびりと破かれる気持ちでした。
無神論者の父親も、仏さんを信じる母親も、「なぜこんな苦しみにあわせるのか!」と叫んだ矛先は、どこかで感じていた‘大いなる方’でしかなかったのです。そして、病床にあって、自分のどんなさだめも受け入れようとするけなげな息子の信仰に、父と母の心は砕かれました。お見舞いに来てくれた牧師先生は、長い祈りをタイジのためにささげてくれました。父と母も手を組んで、涙ながらに「アーメン」とつぶやいたものでした。
大手術は最善を尽くされて、成功しました。命は助けられたが、日常生活に障害が残る可能性がある、と医師からは伝えられました。それでも父と母は感謝しました。その感謝はもはや‘大いなる方’へでしかありませんでした。「元気になったら一緒に教会に行こうな」。お父さんはタイジにそう言いました。タイジは満面の笑みでほほ笑んで、「約束だよ」と答えました。
タイジは幼いながらにも、伝道とは、滅びのさだめに永遠の命を与えること、その重みを理解していました。伝道の喜びに、体は打ち震えました。神様はいろいろな理由で、信仰者にも病をお与えになりますが、タイジはその身に神様の栄光を表したのです。それは幼いタイジにはあまりにも重い務めでした。タイジも何度もくじけそうになったことでしょう。しかしいつも神様とみ使いたちが、タイジを守り抜こうと働き続けてくれていたのです。
幼いタイジの人生はまだ序盤。これからさまざまな神様の証しをしてゆくことでしょう。時に人生の困難、または迫害も通りながら、イエス様の証人として生きてゆくことでしょう。その道のりはどんなに大変そうであったとしても、タイジの目の輝きに、笑みの輝きに、イエス様と共にある喜びがあふれているのですから、人はその姿を見て気付かされることでしょう。幼き信仰者タイジはもはや、立派なイエス様の弟子として、イエス様のみそばを歩き始めているのです。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。