エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。(雅歌1章5節)
これは、神と出会い、神を信じた人のアイデンティティーです。ケダルの天幕は、黒山羊の皮で作られていたのではないかと考えられます。その天幕のように、自分を「黒い」と表現しつつも、その自分を「美しい」と言い切っています。
私たちは、相対的価値があたかも絶対的価値であると勘違いして、人と自分を比較して、優劣をつけたがります。主観的価値と客観的価値を混同して、思い込みで自分を毛嫌いしている人がいます。反対に、ナルシストになる人もいます。
真の客観的価値を主観的価値としたいものです。真の主観的価値とは、あなたと私の創造者である神が決められた価値です。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ書43章4節)
神はあなたに対して、「高価で尊い」と断言しています。これが真の客観的価値であり、絶対的価値です。あなたがあなた自身に対してどう思おうと、人があなたに対してどう思おうと、あなたの価値は揺るぐことはありません。肌の色の黒い人が、皮膚に有害な美白クリームを塗ったり、肌漂白をして、黒から茶色、茶色から黄色、黄色から白へと色を変える施術をする人が増えているそうです。心が痛みます。「私は黒いけれど美しい」事実を受け入れてほしいです。
「お前は黒人に生まれなかったから、黒人の気持ちなど分かるわけないさ」と言われるかもしれません。しかし、黄色人でも、白人でも、自分の容姿にコンプレックスを持って整形をしたり、自分を嫌って自分を傷つけたり、自ら命を絶つ人もいます。「ミス〜(国名・地名)」に選ばれた女性でも、どこかにコンプレックスを持っているといわれます。肌の色が何色であろうと、背の高さ、体形がどうであろうと、障害のあるなしに関係なく、そのままの自分、ありのままの自分が美しいのです。
「いや、そんなことはありません。天地がひっくり返っても、私が美しいなどとは思えません」と言った人がいます。「誰がそう言ってるんですか?」「みんなそう思っていますよ!」「私は、あなたに対してそう思っているのは一人だけじゃないかと思いますよ」「それは誰ですか!?」「あなたです!」
そうなんです。人は、自分で自分をダメだと思い、毛嫌いし、受け入れないのです。人の価値を決めていいのは神だけです。あくまで、自分を美しいと思えないとしたら、その価値基準を作った人が神に成り代わっています。神はただお一方です。そのお方が、あなたを「美しい!」と言っておられるのです。
神をあなたの神とし、そのお方に従って「私は黒い(自分の嫌いな部分)けれど美しい」と、考え方を変えてください。それが事実であり、永遠に変わらないあなたの価値なのです。
神を信じず、神から離れ、神に背を向けている罪の状態がそれを見えなくさせています。神に立ち返り、神を受け入れ、神と一体になり、神と共に歩んでください。その時、神が造られたあなた自身に対して、考え方が変わります。神はあなたを愛しています。神が愛しているあなたをあなたが嫌ったら、神は悲しまれます。黒人、黄色人種、白人という肌の色で優劣をつける考え方は、神に対する背信行為であり、挑戦です。
米国で生活をしたことがありますが、肌の色による差別があることを実感しました。私は、私の中にある人に対する偏見を認め、悔い改めました。神と違う考え方を持つ古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死に、葬られ、イエス様の復活のいのちに支配されて生かされていることを繰り返し宣言しました。
すべての人が、自分に対して、「私は黒いけれど美しい」というアイデンティティーを持ち、隣人に対してありのままで受け入れられるように祈りたいです。神が「美しい」と言われる人を嫌ったり、見下したり、受け入れないことがない世界を夢見ます。
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