著名なゴスペルシンガーが、自らのスランプ体験を語ってくれました。「以前は、毎日のメルマガの内容が泉のように湧き上がってきて、いくらでも書けたのに、ある日を境に、何も湧き上がらず、何も書けなくなってしまった」と。
すごく身近に感じました。私も「一言メッセージ」に限らず、「YouTube 配信」や「教会の礼拝説教」などで何度も何度も通ってきた体験だからです。野球にたとえるなら、バッターとして、毎日毎回ホームランは打てなくても、バンドでもいいからヒットを出す必要があります。しかし、フォアボールでもいいから一塁に行かなければと思っても、空振りの三振でアウトを出してしまうような状況に苦しんだときに、神様に祈りました。
神様の答えはありませんでしたが、代わりに聖書の言葉が与えられました。「わたしはあなたと共にいる」。そして次に「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30章14節)という言葉が示されました。私が考え、私が作り出すのではなく、神の言葉に力がある。その言葉は私の口にあり、心にあり、それを行うことができるほど私と共にあることに気が付きました。
親しくしているある牧師は「若い頃、成功哲学や自己啓発に多額のお金を費やして牧師としての成功を目指したけれど、散々な結果に終わった。今は聖書を通読することが一番だと分かった」と話してくれました。
人間的な知恵や力は、一時的には力があるように感じることはあっても、それは根のない花束のようなもので、枯渇し、行き詰まってしまいます。神の言葉は、一見つまらなく、力がないように感じることがあっても、そうではありません。その計り知れない知恵や力は泉のように湧き上がり、大河のように流れ出ます。
薬にたとえるならば、人間の知恵や力は即効性があり、効いているように感じても、やがて効かなくなってしまいます。しかし神の言葉は、即効性はなくても、ジワジワ効いてきて、根本的に治療し、その効果は永続します。
冒頭で取り上げたゴスペルシンガーも「神の言葉にたどり着いたことで、今は以前とは違う力によって支えられていて、生まれ変わったように活動が祝福されています」と言っています。
私は神学生時代に「毎日聖書を15章読み、3時間以上祈りなさい」と指導されました。当初はそれを忠実に実践していましたが、仕事で忙殺されてそれをやめてしまいました。しばらくは何も問題がないばかりか、聖書と祈りを手短に済ませることで時間が浮いて、いろいろなことができるようになりました。しかし、次第に牧師として働くための力が枯渇しました。
そして、聖書と祈りを大切にするようになると、再び知恵と力が湧き上がるようになりました。力の源泉は、聖書と祈りにあるのです。
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。(使徒の働き6章4節)
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