1709年。英国のエプオースにあるサムエル・ウェスレー牧師の牧師館が突然猛火に包まれた。すでに飼い犬と牛が殺され、2階の窓から子どもたちが顔を出して助けを求めている。
「サムエル、エミリー、こっちだ」。父は2人の手を引いて下に逃れた。母も3つになるチャールスを腕に抱き、別のきょうだいをつれて後を追った。
その時、母は6歳になるジョンがまだ家の中にいることに気付いた。「あなた! ジョンがまだ中に!」父は水をかぶると、家の中に駆け込もうとしたが、周りの人々はその体を抱き止めた。
「もうだめですよ。ウェスレーさん。あんたが死んじまう」。「誰か、ジョンを助けてください!」母スザンナは気が狂ったように叫び、よろよろと倒れかかった。その時すでに火はすっかり回ってしまっていた。
6歳になるその子どもは、2階で絵本を見ているうちにいつの間にか眠り込んでしまった。どこからかゴォーッという音が聞こえた。きっと天の軍勢だ――と子どもは思った。神様はこの家を守るために天から軍勢を送ってくださったのかもしれない。だって、お父さんは牧師だもの。
ゴォーッという音はだんだん近づいてきたので、彼は目を覚ました。その時、目に映ったのは、あたり一面に燃え盛る火で、赤い炎は部屋の家具をすべてなめつくし、煙が喉に流れ込んできた。
「お父さん! お母さん!」子どもは窓に駆け寄り、泣き叫んだ。庭から、彼の名を呼ぶ両親の声がする。飛び降りようとしたが、高すぎてとてもできない。そのうちに、近所の人や駆けつけた教会員たちが何人か組になって「人はしご」を作り、身軽な人が何人か上に登っていった。もう少しで2階の手すりに届くというときになって、下の一人がつまずき、「人はしご」は崩れ落ちた。
「早くしないと、火が回るぞ」。見ていた人は大声で励ました。もう一度「人はしご」は組み立てられ、ついにある人が上手に登ってゆき、おびえ、泣きじゃくる男の子を抱きかかえ、無事に地面に飛び降りた。それと同時に、建物は崩れ落ちた。両親はジョンを抱きしめ、声も出なかった。
「皆さん、神様に感謝しましょう。家はどうか放っておいてください」。われに返ったウェスレー牧師はこう言うと、庭の片隅にひざまずいて祈り始めた。
「ジョンや、よかったね」。母のスザンナは、無事に戻ったわが子の髪をなでさすって言うのだった。「神様はおまえを炎の中から助け出してくださったんだよ。このことを忘れずにね」
サムエル・ウェスレーは、英国の片田舎エプオースで牧師をしていた。エプオースはロンドンの北、なだらかな丘と川の間にある水濠地帯で、美しい自然に恵まれていた。しかし、この地域に住むのは、昼間から酒を飲んで、賭博をするような道徳的に低い人ばかりだった。
彼らはけんかが早く、貪欲で、下品な歌を口ずさみながら村の娘をからかったりするような楽しみしか持っていない人たちだった。彼らは無知なくせに、大声で騒ぐことが好きで、政治のことや教会のことで新しいニュースが入ってくるたびに興奮して騒ぎ立てた。
英国は当時、ジェームス1世の統治下にあり、国教会は堕落した聖職者たちによって乱れ、キリスト教に対する不信が国中に渦巻いていた。権力者たちはおごり高ぶり、弱い者を虐げ、貧民はあふれ、犯罪は日を追って増えた。
毎日のように絞首刑が広場で行われたにもかかわらず、殺人や強盗、放火などが跡を絶たなかった。聖職者や貴族たちは、一般大衆の苦しみなど少しも思いやることがなく私腹を肥やし、形式だけの宗教を重んじ、過酷な法律により貧しい者たちを縛りつけていた。まさに暗黒時代とも言えるものだった。
このような世の中を憂い、進歩的な考えを持った人々は、ジェームス1世を退け、オランダのオレンジ公ウィリアム3世を英国に招き、新しい王とする運動を始めた。サムエル・ウェスレーも正しい人だったので、このような進歩派に属し、新しい政治体制を築くことに賛成の意を示した。
すると、たちまち彼は古い体制の人々の反感を買い、いろいろと嫌がらせをされるようになった。エプオースの村人も、彼が中央の権力者からにらまれているのを知ると、すぐに共謀して悪さを始めた。そして、牧師館に石を投げ込んだり、飼い犬や家畜を殺し、牧師館に火を放ったりしたのであった。
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<あとがき>
ジョン・ウェスレーは、メソジスト派の教会を初めて作った人で、巡回伝道というそれまでのキリスト教界では考えられなかった方法を実践した偉大な伝道者です。彼の生涯を若い方々に紹介するのは、この上ない喜びです。
ジョンは幼い頃、教会の牧師館が火事になり、猛火の中から奇跡的に助け出されたという特殊な経験を持っています。これは彼にとって、神が自分に特別の使命をお与えになったという自覚を持たしめる特別な出来事でした。
母スザンナも、恐らくこの出来事を通して、息子が神から特別の使命を授けられていることを心に留めたのではないでしょうか。ウェスレーがその人生の第一歩を踏み出した時代は、まさに英国にとって暗黒時代と呼ばれたような時代でした。これから、どんな苦難が彼を待ち受けているのでしょうか? それとともに、どんな素晴らしい神の栄光を彼が目にすることでしょうか? ご一緒に彼の生涯をたどってみることにいたしましょう。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。