2018年に『ファーストラヴ』で第159回直木賞を受賞した島本理生(りお)。本作は、その彼女が14年に発表した同名の恋愛小説が原作となっている。その内容もさることながら、主人公・村主塔子を演じた夏帆、そして彼女の不倫相手となる鞍田秋彦を演じた妻夫木聡の濃厚なベッドシーンも話題となっている。確かに独自の世界観を持った作品で、観る者をぐいぐいとその渦中に引きずり込むような映画的手腕は一見に値する。
物語は、誰もがうらやむ結婚をし、温かい家庭に恵まれ、何不自由なく暮らす平凡な主婦、塔子(夏帆)が、偶然にかつての恋人(当時から妻子持ちだった)鞍田(妻夫木)と再会したところから始まる。
一見、幸せそうに見える塔子であったが、実はぼんやりとしながらも、それ故に捉えどころのない虚無感にさいなまれていることが開始20分程度で観る者に示される。優しいけれども相手の都合や気持ちを本当に忖度(そんたく)できない夫。気を遣って優しくしているようだが、芯の部分では嫁である塔子を見下している姑(しゅうとめ)。塔子の中に生まれた疑念は、「私はただ子どもを産むために結婚したのか」というものだった。
このあたりの描写が説明的ではないが、彼女が抱く違和感を明確に描き出すため、観ている私たちは、彼女が満たされない日々を送っていることがありありと分かる構造になっている。
しかし、表面的に何か事件や歪みが発生するわけでもなく、その気持ちを表明する機会すら得られない塔子。悶々(もんもん)としながらも「これでいいのだ」と自分を納得させようとする。だが実は、彼女の内面はさらなる「圧」がかかっており、これはいつ暴発してもおかしくない状況になっていたのだ。
そこにかつての恋人である鞍田と再会する。そして激しく求めあう。「芝居がかった」言葉のやりとりや、その後の行動など、多少の都合よき展開はあるものの、おそらくこういった急展開こそ、原作を支持する女性たちの心をわしづかみにしているのだろう。
その後の2人の言動は、「生ぬるい失楽園」のようで、渡辺淳一の作品のような突き刺さる展開はあまり見受けられない。しかし、だからこそラストで示される塔子の決断は、適当なところでお茶を濁すものではなく、文字通り「賛否」入り乱れるショックを観る側に与えることになる。
本作は、「不倫もの」と「女性の自立」という両側面を描こうとしている。これは昨今の傾向なのかもしれない。単に自堕落で異性に弱く、どうしようもない結果に陥ってしまう人の性(さが)をリアリスティックに描くというものでもなく、かといって主人公が確かな身の処し方を表明し、立派に自立できました、というサクセスストーリーでもない。
その中道を行くからこそ、私たちは登場人物の誰かに感情移入することができ、物語の「その先」を思い思いに想像することになる。
私は自分が男性であるからかもしれないが、彼女の決断には納得がいかなかった。ネタバレになるので詳細は書けないが、彼女の「満たされなさ」のせいではないように感じた。というのは、誰でもどこかに「満たされなさ」を持っており、それを別のもので埋めようと必死になる様はよく分かる。だが、そのことを彼女が恋愛によって、しかもかつての恋人によって掘り起こされるという展開は、確かに物語としては面白いし、ハーレクイン小説のような白昼夢であるなら、それは個々人の嗜好(しこう)に委ねてもいいだろう。
だが、昨今のワイドショーを賑わせている芸能人たちの事例を見ても分かるように、私たちは個々人で勝手に生きているわけではない。成長と共に社会性を身に着け、社会と個人との作用・反作用の狭間で生きている。
かつては所属集団が個々人のアイデンティティーを方向づけていたが、今は「集団の中の個」ではなく、個々がまちまちに点在する社会だ。そしてその中で、己のアイデンティティーを見いださなければならないほど自己責任を問い掛ける社会となっている。
好意的に表現するならそれは「個の尊重」であり、「基本的人権」として個人の尊厳をうたい上げることにつながる。しかし一方で、「寄る辺なき存在」としての自己をどう規定するかという、最も難しい問題がいとも簡単に突き付けられる時代でもある。
だから聖書は次のように語るのだろう。
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩篇16:8、新改訳)
原作を読んでおらず、しかも男性的視点で本稿を書いているため、もしかしたら女性陣からは「分かってない」とか「男性上位の目線だ」と叱責されることになるのかもしれない。しかし本作から、「女性の自立」という一点のみを浮き上がらせるのには無理があるように思えた。
物語全体のモチーフとなっている「Red=赤」は、おそらく塔子に代表される女性たちのめらめらと燃え上がる「自己性」を表現しているのだろう。誰がどんなことをしても、心の内に存在する焔(ほむら)は消すことができない。そしてこの「赤い情熱」はすべてのものを燃やし尽くし、周囲を変えていく、というような意味で用いられていると推測できる。
だが一方で、「Red=血」と捉えるなら、聖書的観点からはキリストの血である。これが流されたことで、罪にとらわれていた人が解放され、病が癒やされ、そして過去にさいなまれていた人生がまったく新しくされる。そう伝えてきたのが(福音主義的)キリスト教の歴史である。
同じ色(赤)を用いながらも、まったく異なる意味、別の方向にベクトルが伸ばされていく。ここに生まれる「ズレ」「すき間」こそ、私たちが語り合うべきスペースである。
不倫や女性視点で描かれる物語にどうか躊躇(ちゅうちょ)しないで、ぜひ鑑賞してもらいたい。そうすることで、男性と女性、クリスチャン同士、または信者と未信者の間でディスカッションが生まれるだろう。そこにこそ、本作の意味があると思われる。
大人が語り合うのには適した人間ドラマである。
■ 映画「Red」予告編
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