さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。(マルコ1:40~42)
イエス様は日々、会堂へ出掛けては福音を語り、多くの人々の病を癒やし、悪霊から解放していました。その癒やしの御業は、イエス様にとって日常でした。このらい病人も、イエス様のお心を求めてやってきました。
当時らい病は汚れた病として社会から疎外されており、人と会話をすることさえ許されていませんでした。「お心一つで」の言葉には、イエス様は私を受け入れてくれますか、という意味が含まれていたのでしょう。イエス様は、そんな彼をちゃんと迎え入れてくださいました。らい病人に行った癒やしの場面から、イエス様がされた3つの行動に注目したいと思います。
1. 深くあわれんでくださった
イエス様は、いつも私たちに神の愛を向けてくださり、私たちの痛みや苦しみを分かち合い、共に背負ってくださるお方です。イエス様は、らい病からくる痛み、家族と共に暮らすこともかなわず、社会から疎外されていく苦しみや悲しみを持つ彼を深くあわれんでくださいました。
イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と語り、すべての痛みを背負ってくださいました。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を身代わりに背負うためです。このことにより、私たちの罪は赦(ゆる)されたのです。イエス様はご自分の命をかけて私たちを愛してくださいました。そこまでしてくださる救い主の愛とあわれみに感謝します。
2. 手を伸ばされた
イエス様の御手は、常に私たちに向かって伸ばされ、近づいてくださっているのです。当時誰もが、らい病人とは距離をとって、遠ざけるようにしていました。しかし、イエス様は愛をもって癒やしの御手をらい病人に向けて伸ばしてくださったのです。救い主であるイエス様はなんと素晴らしいお方でしょうか。教会は、一切のものを一切のもので満たすイエス・キリストの満ちている所であって、そのキリストの側から、私たちに近づいてくださるのです。
主は遠くに離れてはおられません。イエス・キリストがこの世に来られたのは私たちの内に宿るためであり、私たちとの距離を縮め、近づいてきてくださる方であることを感謝します。
3. 触れてくださった
イエス様は、触れることによって私たちと具体的な命の接点を持ってくださるお方であることを心から感謝しましょう。接している、触れていると、その人の命の温かさが伝わるのです。イエス様は触れてくださることによって、私たちに救いと癒やしを100パーセント下さいます。そんな愛の交わりをもって、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言って、私たちを癒やしてくださるのです。
らい病人は、近づいてくるイエス様に「いいんですか? 誰も私に触れようとしないのに・・・」と、ちゅうちょしたのではないかと思われます。それでもイエス様は、らい病人に触れてくださったのです。
私たちの信じる主は、私たちを深くあわれみ、愛し、永遠の命を与えてくださる救い主であり、また癒やし主であり、霊的な解放者であるのです。主の御心は、私たちが癒やされることです。癒やしの御業を求めて祈り、感謝してまいりましょう。
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