それは札幌農学校3年目、1880(明治13)年の夏だった。稲造はなぜか急に母に会いたくなったので、休暇を利用して札幌を出発した。久しぶりに旅をするのでゆったりした気分になり、あちこち寄り道をしてから、ようやく盛岡の実家に着いた。ところが母せきはすでにこの世の人ではなかった。
「電報を打ったんだけど、間に合わなかったのよ」。姉のミネが言った。「お母さん、とてもあなたに会いたがってた。でも、あなたには札幌の学校でしっかり勉強してもらわなくてはとがまんしていたの」
大きな衝撃が稲造を襲った。なぜ寄り道などしたのだろうと。いくら悔やんでも遅かった。この時以来、稲造は常に母の手紙をふところに入れて持ち歩いていたといわれている。
1881(明治14)年。稲造は札幌農学校を卒業。北海道庁に勤めることになった。彼は祖父伝の志を引き継ぐかのようにコツコツと森林を切り開き、水路を作り、荒れた土地を開墾して人々の生活が少しでも楽になるようにと必死で働いたので、庁舎の中でも評判が良く、土地の人からも好感をもって受け入れられた。
しかしながら、稲造の心の中には別の思いがあった。もっと違う形で神と人に奉仕する道を模索していたのである。1883(明治16)年5月。彼は職を辞して上京した。そして、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学する。ここで経済学と英文学を専攻したが、これをもってしても満足できなかった。
ついに彼は渡米を決意する。この時、外山正一教授が「きみは何を目的として渡米するのかね?」と尋ねると、稲造は、こう言った。「もし天が許すなら、自分は太平洋の橋となりたいのです」
1884(明治17)年、東京帝国大学を中退した稲造は米国に渡り、アレゲニー大学を経てジョンズ・ホプキンス大学に入学した。ここで経済学、農政学、歴史学、英文学を学び、後に米国大統領となるウィルソンと親交を結ぶなど益となることが多かった。
さらに、この町で稲造は生涯を決定する重要な出来事に遭遇した。それはクエーカー派の人たちとの出会いである。クエーカー派(米国においてはフレンド派とも呼ばれる)は、平和主義と人道的社会活動で知られているキリスト教の一派である。
1886(明治19)年、彼が「ボルティモア友会」の会員として認められると、クエーカー派の婦人たちは彼を「フレンド・ミーティング・ハウス」に招いて話を聞いた。この聴衆の中に、フィラデルフィアでせっけんとろうそくの製造業を営むエルキントン家の娘メリーがいた。
この翌年、稲造はフィラデルフィアに講演に行った。この時「クエーカー派婦人外国伝道会」の会長モーリス夫人の家のティー・パーティーに招かれた。この場にメリー・エルキントンも来ており、稲造は個人的に言葉を交わしたが互いに引かれるものを感じた。
稲造はこの日のスピーチで「社会は女性の教育にもっと力を入れるべきである」と熱心に語ったのだが、メリーは心を動かされ、友人にこう言った。「私の生涯の仕事がどこにあるのかを教えてくれたのはイナゾーだけだった」と。
2人は急速に親しくなり、翌年彼がドイツに留学したときも交際は続いた。ドイツのボン大学で稲造は農政学、農業経済学を修めた後、ハレ大学において「日本外交史」を研究した。
1890(明治23)年、ハレ大学より博士号が授与される。その頃、郷里では長兄の七郎が3年前に死去したことから、稲造は再び新渡戸性を名乗ることになった。
稲造とメリー・エルキントンは結婚の約束をしたが、当然両家から激しく反対された。稲造の養父太田時敏は「日本人は異人種と結婚すべきではない」と言い、メリーの父ジョセフ・エルキントンは「娘が異人種と結婚して未開の地につれて行かれるなどとんでもない」と言った。
しかし、2人の決意は揺るがず、その年の10月30日、「アーチストリート・ミーティング」の月例会で結婚の意思を伝えた。そして12月25日、メリーの3人の弟と叔母夫妻の同意のもとに結婚が許可されたのだった。
1891(明治24)年1月1日。新渡戸稲造とメリー・エルキントンはアーチストリートの「フレンド・ミーティング・ハウス」で結婚式を挙げた。2人は1月12日、日本に旅立つためにサンフランシスコに向かう。ここに至って、2人の結婚に反対し続けた父ジョセフも妻マリンダと一緒に彼らを見送り、祝福してくれたのだった。
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<あとがき>
東京帝国大学でさまざまな学科を学ぶうちに、突然稲造は中退して渡米を決意します。ある教授から何を目的として渡米するのかと尋ねられると、「もし天が許すなら、自分は太平洋の橋となりたい」と言った話は有名です。
この時はまだ明確な形を取っていなくても、彼の心の中には将来国際的な貢献がしたいというビジョンが形作られていたのではないでしょうか。しかし、それだけでは道は開けませんでした。ここに神の不思議な導きが介入するのです。
彼は米国でクエーカー教徒たちと出会います。平和を尊び、人道的な活動に積極的に奉仕するその信仰に深く影響された彼は、ボルティモアで会員となり、またフィラデルフィアに講演に行きます。
この時、メリー・エルキントンと出会い、互いに理解し合って結婚したのです。メリーという外国人の伴侶を得たことで、稲造はその理想にさらに一歩近づくことができたのでした。
(※これは史実に基づき、多少のフィクションが加えられた伝記小説です。)
(記事一覧ページの画像:新渡戸記念館提供)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。