チャルナーの勧めにより、その後ペスタロッチは、「貧民は貧困へと教育されなくてはならない」という論文をイーザク・イーゼリンに送った。この論文は「エフェメリデン」に掲載され、大きな反響を呼んだ。
彼は、貧民に対し、幸福というものは彼らが自分の境遇とどの程度折り合えるかによるのであるから、その悲惨な境遇を耐え得るものとするために努力し、貧困の中にあっても精神的に自立しなければならないと励ました。そして同時に、彼らの精神的、経済的地位の改善を助けるために、国や自治体も努力すべきであると述べたのである。
1776年7月には、イノホーフの施設は22名の子どもを収容していた。さらに、1778年2月には、4歳の幼児から19歳の青年まで37名が収容された。そして施設には、1人の織工、2人の紡績工、紡績の傍ら子どもたちに読み書きの初歩を教える男1人、農業にも携わるため小作人夫婦も雇っていた。
こうしてイノホーフの貧民学校は発展し、ペスタロッチの心に描いた理想の教育に近づきつつあるように思えたのだが、思わぬほころびが原因で経営困難に陥ってしまったのである。原因の一つは、援助者たちの経済的事情から献金が途絶えがちになったこと。また、1777年には悪天候が続き、収穫のほとんどがだめになってしまったことなどが挙げられる。
それに加えて、施設の発展に大きな弊害となったのは、子どもを施設に預ける両親や身内の者たちの態度であった。彼らは、子どもが一日中働かなくてはならない上に、粗末な食事しか与えられないことに不満をもらし、ついには連日施設に押しかけてきては文句を言うようになった。
そのうち、子どもたちも親のそうした態度を見るうちに、ペスタロッチをばかにし、反抗的になり、施設で衣服を与えられ、教育を受けた後に逃亡してしまった。中には金を盗んで行ってしまう子もいたのである。
1779年になると、事態はさらに悪化する。彼がチャルナーを通して申請した助成金が許可されず生活苦のために別に借金をしたことから、再びペスタロッチ夫妻は貧困のどん底に落ちた。
1779年8月。ペスタロッチは自分の地所を処分することにし、20モルゲンの土地を兄のバプテスト・ペスタロッチに委託した。ところが、同じく生活苦の中にある彼はその金を着服してしまい、弟に許しを乞う手紙を出した後、消息を絶ってしまったのである。
この時、妻アンナは心労から健康を害して床に就いていた。ペスタロッチは彼女の実家の財産や援助者からの寄付金をすべて使い尽くしてしまい、世間の信用をことごとく失った。そして1880年、「イノホーフの貧民学校」はついに閉校となったのである。
このような時、一人の援助者がイノホーフを訪れた。エリザベート・ネーフという女性で、彼女はボランティアとして家政婦を志願してきたのである。昔、ペスタロッチの母を支えたあのバベリーによく似た彼女は、わずかの間に家政を立て直し、以後ペスタロッチ夫妻をずっと支え続けたのであった。
もう一人、この失意の時期にペスタロッチを助けたのはイーザク・イーゼリンであった。彼の勧めでペスタロッチは「エフェメリデン」誌に次々と論文を寄稿した。彼は社会改革のための論文を書き、社会的弱者を擁護しようと考えた。これはその中の一文である。
「困窮の底にいる下層の人々を引き上げることこそ文明化された人類の義務である。・・・養老院、孤児院、刑務所などは、文明によって必要なものを享受することを奪われ、国家から見捨てられた末、犯罪者となってしまった人々のために設けられているのだ・・・」
それからしばらくして、ペスタロッチは不朽の名著といわれる『隠者の夕暮』を出す。彼はこの中で、すべての人間の素質の中には高貴な人間性が備わっていること、この内的要素を発展させることが人間教育の主たるものであり、そのためには環境が不可欠な条件であると述べている。
しかし、彼の名を揺るぎないものにしたのは1781年4月に刊行された『リーンハルトとゲルトルード』である。これは旧友ヨハン・ハインリッヒ・フュースリと再会した彼がこの友人の勧めで発表したもので、児童教育の教科書ともいわれたものであった。
1780年夏。ペスタロッチは偶然目にした賞論文「赤子殺しをなくす最良の手段は何か」に応募した。残念ながら受賞には至らなかったが、この論文は1924年の「青少年保護法」および「少年裁判法」に影響を与え、青少年の補導や保護事業に大きな貢献をすることになったといわれている。
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<あとがき>
貧困家庭の子どもを救済するイノホーフの施設は、大変に評判になり、たくさんの子どもたちが送り込まれました。しかし、思わぬことから経営が困難になり、ついに閉鎖という最悪の事態を招いたのでした。
原因の一つには、献金をしてくれる人の経済的事情から援助が打ち切られたこと。2つ目は、子どもを施設に預けている両親からの不満が大きくなってきたことでした。そうしたことから、子どもたちも反抗的になり、お金を盗んで逃げてしまう子や、悪態をついた末に飛び出して行ってしまう子が続出し、とうとう心ならずもイノホーフを閉鎖しなくてはならなくなったのです。
しかしながら、神様はペスタロッチ夫妻に2つの贈り物を与えられました。一つはエリザベート・ネーフという素晴らしい家政婦。もう一つは、出版社を経営しているイーザク・イーゼリンとの出会いでした。彼によりペスタロッチの隠れた才能が引き出され、以後次々と教育的名著を生み出していくのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。