さらに、ペスタロッチを悲しませるような事件が起きた。ヘルヴェチア協会の「社会研究会」で知り合って以来一番の親友になったヨハン・ガスパール・ブルンチュリ(愛称メナルク)が結核を患い、日に日に衰弱していったのである。
ある日、ペスタロッチが彼の下宿先に見舞いに行くと、メナルクは手招きして彼を枕元に来させ、その手を握ってこう言った。
「ペスタロッチ、大好きな友。ぼくは間もなく死ぬ。貧しい人たちのために何一つしてあげられなかったことが残念だ。きみを後に残していくのが気がかりなんだが、この最後の忠告を聞いてくれないか。きみはお人よしで人をすぐに信用してしまう性格だから、危険にさらされるような賭けに身を投じてはいけないよ。穏やかで静かな人生航路を歩みなさい。人間や物事について冷静沈着な知識を持ち、きみを心から助けてくれる誠実な人がついてない限り、失敗したら何らかの形できみを危険に陥れかねないような大きな事業に決して手を出してはいけないよ。死ぬ前にこれだけ忠告しておきたかった」
「嫌だ、メナルク、逝かないでくれ! きみと離れたら自分は何一つできないんだ」。ペスタロッチは友人の手にすがりついた。すると、メナルクは深い思いを込めて、じっと彼を見つめた。
「運命には逆らえない。きみはどうか健康を維持して、ぼくたちがいつも話し合ってきた夢――この国から貧国に泣く人がいなくなるような社会を作ること――それを実現させてくれ」。そして、友人の手を握り返すとそのままがっくりとなって、こと切れた。
親友の突然の死に、ペスタロッチは茫然自失となって、何一つ考えをまとめられず、「社会研究会」にも出かけることができなくなった。時折、彼は恐慌に陥り、外に走り出て両手で頭を抱えて野原を駆け回ったりしたので、皆彼を狂人呼ばわりした。
そんな彼のたった一つの慰めは、メナルクの墓に行き、その前で亡き親友に自分たちがかつて分かち合った共通の理想について語りかけることであった。
その日も、ペスタロッチは彼の墓に行くために小高い丘に登った。その時、墓の後ろで誰かがすすり泣く声がした。ぐるりと後ろに回ってみると、そこに美しい一人の女性がしゃがみ込んで泣いていたのである。
「あの・・・」。声をかけようとして、彼はためらった。女性はあわてて涙を拭くと、彼を見上げた。「メナルクのお友達の方でしょうか?」。彼女はそう尋ねた。「はい。ハインリッヒ・ペスタロッチと申します。メナルクとは無二の親友でした。あなたは身内の方ですか?」
「わたくし・・・」。そう言うと、その女性は再び声を詰まらせ、激しい嗚咽をこらえつつ言った。「・・・彼と結婚の約束をしたのです。それなのに・・・」。ふびんさにペスタロッチは胸がふさがる思いで、気が付くと彼も手放しで泣いていた。
この女性は裕福な商家の娘で、アンナ・シュルテスと言い、ペスタロッチより8歳年上であった。彼女は、弟を通してメナルクを知り、その後交際を始め、いつしか結婚の約束を交わす間柄になっていたのだった。
2人は並んで座ると、いつの間にかメナルクの思い出話をし合うようになり、そうすることでうずくような心の痛みが癒やされるような気がした。
「あなたとお話をして、少しは悲しみがまぎれましたわ。わたくし、メナルクの後を追って死のうとさえ思っていたのです」。「私も同じです。メナルクを自分の分身のように思っていましたから、彼がいなくなって、どうやって生きていこうかと思っていたのです」
こうして2人は、また会う約束をした。共通の友人を失ったことが2人を強く結び付け、彼らはそのうち手紙による交際を始めた。そして、何度か手紙のやりとりをするうちに、相手に対する理解が生まれ、やがてそれは好意に変わっていった。
しかも、2人を結び付けたのは、2人がまったく同じ信仰を持っていたことだった。そして、いくらもたたないうちに、彼らはお互いに相手なしではいられなくなるほど引きつけ合うようになったのだった。
彼らはチューリッヒの人々のうわさになることを恐れ、人目につかない場所――人里離れた散歩道とか、アンナの別荘近くで会う約束をし、互いの愛情を密かにはぐくみ、温めていったのであった。
*
<あとがき>
ペスタロッチは、近代化が進む産業主義社会に適応できず、常に取り残されているような存在でしたが、不思議なことに彼は生涯を通じて素晴らしい友人に恵まれました。ヨハン・ガスパール・ブルンチュリ(愛称メナルク)もその一人でした。
しかし、彼は重い病気を患っており、社会改革への大きな夢をその心に抱きつつもその人生を全うすることができませんでした。彼はペスタロッチに自分の夢を託し、2人で考えてきた社会改革の任務を自分に代わって果たしてほしいと言い残して死去します。
この親友を失ったことは、ペスタロッチにとって大きな痛手でした。しかしこの時、同じように彼を失って大きな悲しみの中にあるアンナ・シュルテスと出会い、互いに共感し合ううちに、それが深い愛情に代わり、やがては彼女と結婚することになるのです。
われわれの人生というものは、実に神の手の中にあって、すべてがよく守られているのだということを感じさせられます。
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。