全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:1~7)
今日の聖書の箇所は、クリスマスの聖誕劇でおなじみの場面です。ベツレヘム滞在中に、月が満ちてマリヤはイエスを産み落としました。そこは何と、家畜の飼葉おけでした。劇では、馬小屋らしい演出をします。しかし、本当の家畜小屋や飼葉おけがどれほど粗末で汚いものかご存じでしょうか?まして、人でさえまともに食べることもできなかった当時の飼葉おけはどれほど粗末だったことでしょう。聖書の語る紛れもない救い主、王の王、神の御子であるイエスが飼葉おけの中に自らの命を置かれたというわずか数節のこの物語にどれほど大きなへりくだりが現され深い価値あるものかを忘れてはなりません。
1. ご自身の神の栄光をかなぐり捨てられた
神の輝き、神の御姿、神の御子を人間に対して啓示する存在である、輝かしいお方でありながら、神の栄光を捨てることができないとは考えないで、本当に捨ててくださった。私たちは貧しい人に対して施しをしようとしますが、自分の衣服を全部貧しい人にあげ、家やマンションを売り渡して、その人々に住まわせ、自分が馬小屋のような場所で住む覚悟がありますか。人は、自分の持っている輝きや栄光を全部捨てることはできない。しかし、キリストはそれをすべて捨ててくださいました。
2. キリストは人となってくださった
キリストは「栄光を捨てたよ」、とかっこよく誇らしげに語られたのではなく、本当に人となってくださった。最近はペットが家族のように愛されて、かわいい犬や猫の家族と同じように暮らしている動画を見るとほっこりします。でも、考えてください。いくら好きだからといってあなたは犬や猫になれますか。単なる詩的な文学的表現ではなく、本当になれますか。神であられた方が、みじめで弱く力のない愚かな人間になってくださった。このものすごい出来事は、私たちと同じ人となって私たちを救うためでした。
3. キリストは仕える者になってくださった
聖書の時代の「仕える」という言葉は奴隷になることです。格好の良い執事ではありません。自分の命の自由や権利を持たず、売買され、どんなつらい仕事も汚れた仕事もする。家畜のように使われるのが奴隷です。キリストは、その仕える者になられ、自ら弟子たちの足を洗い、私たちの罪が重くのしかかった十字架を背負い、いばらの冠を被せられ、その両手に釘を打たれ、足を釘で打ち抜かれ、脇腹を槍で刺されて私たちのために死んでくださった。キリストは仕える者の姿を取ってくださいました。
4. 私たちのために死んでくださった
イエスは私たちが生きることができるようにと、私たちの背負うべき罪を背負い、身代わりに死んでくださいました。命を捨てるまで私たちを愛し支えてくださったのが救い主イエスです。だからこそ飼葉おけの中の救い主なのです。飼葉おけの底、その一番深く汚い所は、私たちの心につながっています。適当にうそつきで、いい加減な、こんなに汚い罪人のために下ってきてくださったことを喜び、本物のクリスマスとしましょう。救い主はへりくだりの救い主。この方だけが人の成し得ない奇跡を成し遂げ、救いを実現してくださったことを感謝し、喜びましょう。
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