2006年5月、現在は内戦中のシリアに入った。旅はシリア中央部のパルミラ遺跡からヨルダン南部のぺトラ遺跡へ走ることとした。
ダマスカスの空港へ朝着いて、町のバスターミナルへ行くと運よくパルミラ行きのバスにすぐ乗れた。お昼過ぎにパルミラの街に着いて、自転車を組み立てようと部品を広げて組み立てていたところ、子どもたちが来て部品をいくつか持っていってしまった。幸い走行には支障はないが、なんだかスタートはいやな感じだ。
宿を確保して荷を置いてから遺跡へ行ってみる。ここには囲いも何もなく、ということは入場料もなく、自由に自転車で遺跡の中を走って見ることができる。維持費はどこから出ているのだろう・・・。一番の見応えはメインストリートの列柱であるが、脇にはローマ風呂や劇場の跡などもある。
遺跡の中には民家があって、訪ねてみた。お土産を売って暮らしているようだ。遺跡の近くには丘があり上ってみると、このパルミラという古代都市が砂漠の真ん中にあるオアシスで、交易の重要な場所であったろうということが良く分かる。
夜にも月明かりに照らされるのを見て歩き、朝には日の出を見て、遺跡を満喫した。先日のニュースでこの町がイスラミックステート(IS)の支配下に置かれたことを知った。この重要な世界遺産が破壊されないことを望む。そしてそれ以上にここに住む人たちのことを思う。前述のローマ劇場では大勢が処刑されたようだし、キリスト教徒の戦闘員がIS戦闘員を斬首したというニュースも流れたが、報復は報復を呼ぶだけであろう。「復讐はわたしのすることである」と言われる主に任せて連鎖を絶つことができるようにとただ祈るのみである。
翌日は西へ向かって隣の都市であるホムスへと走る。隣とはいえ距離は160キロもあるが、まっ平らでもちろん信号も何もないから、1日走り続ければ着くはずだが、朝から強い西風が吹き続け、全く風よけのない砂漠では時速10キロ程度しか出ない。お昼にはとても夜までに着かないと見込まれ、テントは持っていないので途中の小さな町に宿があることを願うしかなくなったが、どうやらそれも見込みが薄そうだ。そういう状況だったので夕方トラックが止まって乗せてくれたのはとてもありがたかった。それに自分一人では出会うこともなかったであろうベドウィンの人のテントへ寄ることもできた。
海岸に近づくと砂漠が終わり、木が生えてくるが、その木がみな東に傾いて立っている。どうやらこの土地は常に強い西風に晒(さら)されているようだ。
ホムスには夜になって着いたが、暗くなってから言葉がほとんど通じない中でホテルを探すのはかなり大変だ。見つけたホテルはあまりきれいではなく部屋の鍵は閉まらないし、隣がモスクなのもどうかと思ったが贅沢は言っていられない。やっとありついた食事はこのあたりでよくある安くて美味しいケバブのサンドイッチで、一日走った分の補給ができたが、夜中には案の定スピーカーから大音量で流れるコーランで目をさまされた。
そしてこの街も、内戦の初期のうちに激戦地となり破壊されたと聞いた。ここからレバノンへ入る。その話は次回へ持ち越すとして、2日後シリアへ再入国して首都ダマスカスへ向かう。ダマスカスは世界でも最古の都市の一つで、新約聖書の時代の町並みも残っている。パウロが歩いた「直線通り」もそのままあって、ここを彼が歩いたかと思うと感慨深い。アナニアによってパウロが、目が見えるようになったという場所の地下には洗礼を受けた教会の礼拝堂があり、使徒言行録9章にあるかごに乗せられ城壁伝いにつり降ろされたであろう場所は、城壁に開く門の一つバブキサンの門に残る。この門の空間は教会堂になっており、パウロがダマスカス途上でキリストに出会って目の見えなくなってからの出来事が、壁画となって飾られている。
城壁に囲まれた旧市街は迷路のようで、どこにいるか分からなくなり地図を見せて聞いてみるが、住んでいる人も地図上で自分たちがどこにいるか分からないようだ。そんな時はとにかく真っ直ぐに進み続ければ、あまり大きくない旧市街なので10分も進めば城壁にぶつかる。そこでどこにいるのかが分かる。
その夜、街を見下ろせる丘に登ると、モスクの緑の光が沢山見えた。そのひとつ、ウマイヤドモスクには新約聖書マタイ14:10、マルコ6:27に記述されているヨハネの首が残っているといわれる。
ダマスカスを離れヨルダンへ向かう道は、右手に古代イスラエルの境として聖書に地名が出てくる、雪をかぶるヘルモン山を見ながら走っていった。
今は入ることができないシリアだが、このような事になるなど想像ができなかった。聖書が書かれていた昔から中東は争いの絶えない場所であるが、この地に主の憐れみがあるように祈っている。
◇