子育てをしながら、不安定なサポート環境の中で表舞台(芸能)の仕事をするのは厳しいと判断した私は、「せめて息子が小学校に上がるまでは、子育てに集中しよう」と決めました。
幼い頃の体験(60回記載)から、小さなうちは一緒に過ごす時間をたくさん作りたかったこともありましたが、「息子はよく高熱を出す。もし仕事が入ったときに発熱して、誰にもお願いできなかったらどうしよう・・・」「仕事を突然キャンセルしたら、信用を無くし、次は無いだろう・・・」など、起きてもいないことをあれこれ心配し、勝手に不安になっていたこともあったからでした。
そこで、「自宅でできる執筆業を確立させよう!」と決意しました。友人の劇団の脚本を引き受けたり、懸賞情報や文芸公募が掲載されている専門雑誌やウェブサイトをチェックし、「できる!」と思ったものにはドンドン挑戦しました。CMのキャッチコピーや、短編小説のコンクールに至るまで、さまざまなものに応募しました。
ファイナリストになって「本が出せるかも?!」というところまで行ったこともありましたが、結局グランプリは逃し、「共同出版」で費用の半額を自己負担すれば・・・ということで断念しました。「グランプリ受賞」は、さすがにハードルが高く、容易に取れるものではありませんでしたが、「挑戦し続けていれば、必ずチャンスは巡って来る!」と、地道に続けていきました。しかし、元夫Aに、その夢を語ることはできませんでした。日増しに強まる沈黙の威圧感によって、ますます怯えていったからです。
この間、Aは本業(プロレス・役者)が減っていたようで、何か別の肉体労働をしていたのか?軍手やゴム手袋を干していることがありました。かと思うと、パーナルトレーナーの資格を取得したり、トレーニング器具を自ら編み出したのか? 試作品らしき物が、次々と家に届くこともありました。
スポーツ器具のビジネスでも始めようとしていたのでしょうか?・・・一切話してくれなかったのでよく分からないまま、どうすることもできず、ただ、仕事をしていない罪悪感で機嫌を伺いつつ、緊張の中、生活していました。
「女性は子育てで働けない時期もある」という概念は無かったようでした。離婚の際に「子どもが出来たら、前よりもっと働くと思った」と言われましたが、「それならもっと協力して欲しかった。子どもが小さいうちのことなのだから」と思ったものでした。世間の常識を嫌い、A独自のルールが増す中で、私は家庭の中で本当の「自分」をすっかり失くしてしまいました。
ただ、ママ友達と幼稚園の係りの仕事をしたり、子どもを連れて遊びに出掛けているときだけが「自分」らしくいられる楽しい時でした。そうやって、逃げることしかできない弱い自分でした。もっと毅然とした態度で「仕事ができない期間でも、家事と子育てはちゃんとしているぞ!!」と堂々と振る舞う、とか、余計な心配をせず「なんとかなる!」と仕事をして、自立した経済力を持つ!とかをしていれば、負い目を感じず言いたいことも言え・・・と、会話のない生活は訪れなかったのかもしれません。
「言葉」は本当に大切です。クリスチャンになって聖書の学びを深めていくにつれ、「言葉によってこの世は造られ、言葉によって現実は変わる」ということを学び、幾つも体験をしたからです。お互いに言葉を交わし、話し合えば分かり合えたこともたくさんあったはずなのに・・・。会話のない期間、お互いに一方的な思い込みで勝手に誤解し、勝手に傷付き、勝手に怒り、そうして分裂の溝は次第に深く大きくなっていきました。
そんな日々を重ねた結果・・・ある日の早朝、執筆に取り組んでいた私に、起きてきたAは「なあ・・・同居離婚て、どう思う?」と、切り出しました。
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