今日5月13日は「母の日」だ。日付は世界でさまざまだが、米国の「母の日」に由来する日本では、毎年5月第2日曜日がその日として祝われている。今年は「母の日」を祝う最初の礼拝が行われてから110年、創始者のアンナ・ジェービスが亡くなってから70年となる。
米国の「母の日」は、アンナが1907年5月12日、亡き母アン・ジェービスを偲び、母が日曜学校の教師をしていたアンドリューズ・メソジスト監督教会(ウェストバージニア州グラフトン)で記念の礼拝を行ったのが起源とされている。この日はその年の5月第2日曜日で、アンが亡くなってから2年後のことだった。
翌1908年には同教会で、日曜学校の生徒と母親たちが大勢集まり、最初の「母の日」が祝われた。アンナの積極的な働き掛けもあり、日頃の母の労をいたわり感謝するこの日は、14年には米国で、15年にはカナダで公式の記念日として定められた。
日本では、米国から来日した女性宣教師たちが定着させた。日本で初めて「母の日」の行事が行われたのは1913年。当時、青山女学院で教えていた女性宣教師マイラ・E・ドレーパーが同学院で記念の礼拝を行った。その後、元同学院院長のファニー・G・ウィルソンが、日本各界の著名人に働き掛け、32年に日本で初めて「母の日」の公式行事が行われた。
アンナの母アンは、南北戦争中に敵味方にかかわらず負傷した兵士を助ける活動を行った人物で、アン自身も「母の日」の先駆けとなる言葉を用いてきた。
まず初めに、衛生環境の改善と乳幼児の死亡率を下げるための働きとして、1858年に「母の仕事の日クラブ」を組織した。当時は多産の家庭が多かったが、麻疹や腸チフスなどの病気で亡くなる子も多くいた。アン自身もその生涯で13人の子どもを産んだが、大人になるまで成長したのはわずか4人だった。
1861年に南北戦争が始まると、アンがいたバージニア州西部は南北で対立し、63年にはウェストバージニア州として独立するなど、激戦地の1つとなった。アンは中立を宣言し、南北両軍の負傷者を支援するためにクラブを用いた。戦後には「母の友情の日」を作り、戦争で傷ついた兵士やその家族たちを癒やすための働きを行った。そして1905年、その年の5月第2日曜日である5月9日に72歳で亡くなった。
アンナは、母アンを偲ぶとともに、それぞれの家庭が母の日頃の労を覚え、純粋に感謝する記念日として、「母の日」の創設に力を入れた。1908年にアンドリューズ・メソジスト監督教会で最初の「母の日」の礼拝が行われた際、アンナ自身はフィラデルフィアでの講演のために参加できなかったが、この日の重要性を説く電報を送り、500人近くいた礼拝参加者全員に、母が好きだった白いカーネーションを贈った。
一方でアンナは、この運動が広がるにつれ、「母の日」が次第に商業的、政治的に利用されていくことに気付いた。特に「母の日」に白いカーネーションの値段を上げる花屋に対してはボイコットを呼び掛け、ニューヨーク市が計画していた大規模な「母の日」の記念行事にも反対し、中止させるなどした。
残念なことに、晩年には「母の日」を創設したことを後悔するような言葉も語っていたという。アンナ自身は結婚せずに子どももなく、1948年に84歳で天に召されていった。「母の日」を創設しつつも、その商業・政治利用に反対することに生涯をささげ、現在はペンシルバニア州にある墓地で、母アンと共に眠っている。