病室で朝を迎えました。6時のラジオ体操の音楽が、フロアから流れてきます。のりぼはのっそりと起きだして、歯磨きセットを持って病室を出ました。フロアに行くと、ぽつりぽつりと何人かがラジオ体操をしています。その中におばさんもいました。のりぼは隣に行き、ラジオ体操をしました。
ひととおり終わると、皆にお茶が配られます。のりぼはお茶を片手に、おばさんの隣に腰掛けました。おばさんは、あの世界のことを覚えていない様子で、のりぼを見てもにこりともしませんでした。それでもよそよそしいわけでもなく、のりぼをすんなりと受け入れるように「おはよう、ぼうや」と言いました。
「おばさん、おはよう」。のりぼも応えました。「おばさん、昨日言っていた、赦(ゆる)されない罪ってなんなの?」。のりぼは夢の続きのように親しみを込めて聞きました。それにおばさんは驚き、「そんなこと言ったっけかな」と言い、続けて「赦されてる人のほうが珍しいんじゃないかな。人間はみんな悪いから」と言いました。
そうこうしている間に朝食が運ばれてきました。今日は豚汁とおにぎりです。おにぎりにかぶりつきながら、のりぼはいよいよ親しみを込めて「おばさんもイエス様を信じていないんだよね」と聞きました。「そうだね。だって信じられるかい?神様の御子が、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったなんてさ」。おばさんはのりぼの様子に釣られて、親しみを込めて返しました。「そうだね。信じられないよ。だったらその人はなんのために生まれてきたの?って思っちゃう」
そんなことを話している間に、のりぼはおばさんの傷だらけの手や顔を見つめていました。自分で切ったのでしょうか。深い傷、浅い傷を見つめながら、のりぼはおばさんを慈しんでいることに気付きました。
朝食が終わっても、のりぼはおばさんと一緒に居ました。日当たりのよい窓辺で、花を見つめておりました。花の向こうには自転車で学校に向かう子どもたちの姿が見えました。のりぼの隣には、若い青年が座って、大きな声で歌を歌っていました。「ひどい世界さ、もう目も当てられない。不義~不道徳のまかり通る世界で~正義を待って千夜を越した~♪」。世界の平和を願う歌のようで、耳を澄ませているととても心地よく感じました。
「おばさんはね」。おばさんが重い口を開くように言いました。「娘を死なせたんだ」。「娘を?」。のりぼは驚いて聞きました。「そう。若い時に、旦那さんもいないで授かって、貧しくてね。・・・働きづめだった。ほとんどかまってやれなくて、疲れて帰るとお風呂に入れてやるのも忘れるほどでね、洋服も同じのを着せたままだった。・・・そうこうしているうちに、車にひかれて死んじゃったんだ。5歳だった。・・・朝食もろくに食べさせてやれなかったから、おなかがすいてふらふらしてひかれたんだよ。たぶんね」
のりぼは「そう」と言ったきりうつむきました。「かわいそうだね」。おばさんも娘さんもかわいそうだと思いました。そして、おばさんの顔や腕が傷だらけな理由が分かった気が少しだけしました。(そんなおばさんをだいじに愛する神様だったら信じるよ)。ルビーの言葉を思い出しながらのりぼはそう思いました。
のりぼはおばさんと別れて、病室に戻りました。布団にくるまっておばさんのことを想いました。「神様。おばさんを幸せにしてほしい」。そう言って寝返りを打つと、コンコンと病室をノックする音が聞こえました。
起き上がると、戸根先生がにっこりと笑って入ってきました。「のりなりくん、おはよう。今日もお父さんはお仕事で来られないから、先生が代わりに来たよ」。そう言ってのりぼのベッドに腰掛けました。のりぼはうなずいて、先生の隣でじっとうつむきました。それからゆっくり口を開いて、おばさんの話をしました。
「おばさんは、娘さんを自分のせいで死なせちゃったんだって・・・貧しくってね、ひとりで育てて、ご飯やお風呂のお世話もあんまりしてあげられなくて、ご飯も食べていないからふらふらとして車にひかれて死んだんだって言っていた。・・・かわいそうだね。おばさんは。手や顔が傷だらけなことに先生は気付いた?」
先生はじっと聞いていて、うん、と1回うなずいて「気付いたよ。とても苦しんで頑張って生きてきた人なんだと思ったよ」と言いました。「イエス様はおばさんを特別に愛する?おばさんを特別に愛するイエス様なら、信じてもいいかな」。のりぼはそう言いました。
「もちろんだよ!のりなり君!イエス様は、貧しい人、虐げられた人、孤独な人、苦しんでいる人に一番やさしかったんだ!」と、のりぼの手を取りました。「のりなりくん、おばさんも呼んで一緒に讃美歌を歌わないかい?イエス様がどんな人だったか、一緒に考えよう」と言いました。のりぼの顔はぱっと明るく輝いて「今呼んでくる!」と、ベッドから飛び下りました。
しばらくすると、のりぼに手を引かれておばさんが戸惑いながら入ってきました。「いいんですか?私にまで何か聞かせてくれるそうで」。おばさんはそう言って、のりぼに導かれるままベッドのそばの椅子に腰かけました。
先生は、分厚いカバンから本を何冊も取り出して、のりぼとおばさんに渡しました。「じゃあ、讃美歌を歌う会を、小さい会ながら始めましょう。まずは讃美歌の121番を開いてください。歌わなくても、聴いているだけでもかまいませんので」
「まぶねの中に」。お母さんがよく歌っていた讃美歌です。「さんはい」と先生が声をかけ、のりぼと先生が歌いだしました。おばさんは本を閉じたまま、じっと聞いていました。
馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ
木工(たくみ)の家に ひととなりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさになめし この人を見よ
食するひまも うちわすれて
しいたげられし ひとをたずね
友なきものの 友となりて
こころくだきし この人を見よ
すべてのものを あたえしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ
この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ
のりぼは途中で涙をこらえられなくなりました。お母さんのことを思い出したのです。お母さんがイエス様をどんなに好きだったか分かるような気がしたのです。歌い終わると先生が話し出しました。
「この曲はイエス様の生涯を歌った歌です。この歌の通り、イエス様は虐げられた人、貧しい人、孤独な人のもとに駆け付けては生きてきました。聖歌320番にこう歌われています。『むかし主イエスはナザレという田舎の町の大工として、木を伐り板を削りながら、親や兄弟みておられた』。ご自身を神の子だと悟りながらも、大工の家に暮らし、やがて貧しき人や虐げられた人のために生きることを決意され、30歳を過ぎてから、天のお父様のための、孤独で虐げられた人のための働きを始めたのです」
のりぼは不思議に思って聞きました。「イエス様は小さいころから自分が神の子だと知っていたの?」。先生は目を潤ませて、「そうだよ。幼いころから天の父を父と呼び、大人たちにも真理を教えておられたんだ」。「それなのに30歳まで大工をしていたの?」。先生はうんうん、とうなずきました。
「そうだろうね、きっと手伝っていただろうね。どんな気持ちで木を伐り、やすりをかけていたんだろうね。自分が神の子であり、いつそれを公にして、人を導くか、ずっと考えていたんじゃないかな。・・・旧約聖書に預言されている救い主が自分であることに気付き、自分が十字架に架けられることも、分かっていたんだよ。でも、イエス様はいつも自分だけ特別な道は行かないんだ。地道に、親や兄弟に尽くし、一生懸命大工をして、疲れた体で寝ていたんだろうね」
「親も神の子だって知っていたの?」。「マリアはイエス様を授かるときに、天のみ使いと話していたから、知っていたんだよ。でも実際に自分の子として育つと、半信半疑になったかもしれないね」
おばさんが口をはさみました。「イエス様は本当に、輝かしい道のりとは言えない人生を送ったっていうね」。先生は「そうなんです」と前のめりになりました。
「それはけして輝かしい栄えある道のりではなく、本当に地道で、寝る場所や食べるものにも事欠きながら、人の苦しみに寄り添う道のりでした。・・・文字通り、十字架の死に至るまで、人のために命を捨てる道のりだったのです。・・・イエス様は、苦しい道のりを生きてこられたおばさん、そしてお母さんを早くになくされたのりなり君に、特別によりそう愛なる神様です。・・・おばさんは前に『私なんかを赦す神様はいない』とおっしゃいましたがとんでもない!イエス様はおばさんの心の傷を誰よりも知り、共に痛んでくださる方です」
するとおばさんはもごもごとして、「・・・私を赦しているというのですか?」と聞きました。先生は前のめりになって「当たり前じゃないですか!赦すも赦さないも、ただ愛していらっしゃると思います。赦していないとしたら、それはご自身がご自身を赦せないでいるのではないでしょうか。だとしたら神様は大変悲しまれています。愛しておられるおばさんが、ずっと苦しんでいるのですから」。
「そんな!そんなことあるはずない!」。おばさんはそう叫ぶと、顔を覆って泣き始めました。のりぼはおばさんの肩をさすり、「おばさんは悪くないと僕も思ったよ」と言いました。「そんなことはない!わたしがいけないんだ、いけなかったんだ」。そう言っておばさんは泣きじゃくりました。
部屋には天高く上ろうとしている陽が入り、おばさんやのりぼを黄金色に照らし出しました。ぽかぽかとあたたかい陽はまるで「私はあなたを赦して、そして愛している」という神様の言葉のようでした。それをおばさんも感じていることが、のりぼには何となく分かりました。
「イエス様は赦していらっしゃいます。そしておばさんを愛しておられます」。先生は言いました。おばさんのすすり泣きが響いていました。「私なんかを、私なんかを」と嗚咽の中で言っていました。
のりぼは(それじゃあ、なんのためにイエス様は生まれたんだ)という問いに答えが与えられた気がしていました。イエス様はただ、人間を憐れんで、救うために来られたということが分かりかけたのです。それはのりぼに、人を憐れみ慈しむ心が芽吹いたからかもしれません。
やがて先生は帰り、おばさんも自分の部屋に戻りました。おばさんは先生に何度も頭を下げていました。のりぼは眠くなり、また毛布にもぐりました。また、ルビーが呼んでいる気がしていました。
「ルビー、また僕を呼ぶの?」。そう言いながら眠りに落ちていきました。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。