「のり坊、おいで」。お母さんの声がした気がします。ハッと目を覚まし、あたりを見回すと、草原が広がっておりました。
あの時の美しい景色の中です。のりぼは「お母さん!」と呼びました。風が吹いています。いろいろな花の匂い、樹液の匂いのまざった、神様から流れ出ているような、神秘的な風でした。不思議とここにいると、神様がいないなんていうことが信じられなくなってきます。
花の一輪一輪の、可憐でありながら、それ自体で発光しているような美しさ、吹く風の匂い。揺れる青草の柔らかさ。すべてが神様の存在を証明しているようでした。
「お母さん、ルビー!誰か来て!」。のりぼは大きな声で呼びました。返事はありません。茂みを歩くと、草原の奥にいけにえおばさんの家が見えました。先ほどよりもなんだかあたたかそうに思えます。のりぼはそろりそろりと近づいていきました。
「いけにえおばさん」。そう書かれたプレートが揺れています。家の中をのぞいてみると、おばさんは暖炉のそばでスープをかき混ぜておりました。コンコン。窓をノックすると、うんざりしたような顔でおばさんは振り向いて、おいでと手を振りました。
のりぼは恐る恐る、骨で出来たようなドアノブをひねり、おうちの中へ入っていきました。おばさんは、傷だらけの横顔で、スープをかき混ぜながら言いました。「おいしいスープが出来たよ。命をどっさり入れたんだ。鳥やカエル、ムカデもね」。のりぼは言います。「こんな美しい場所で鳥や虫たちを殺して、かわいそうだと思わないの?それに木がたくさん茂っていて、食べられそうな果実も見たんだよ。果実を食べればいいじゃない」
もうそれほどおばさんが怖くありません。暖炉のそばの椅子に自分から腰掛けました。やはり病院で見たおばさんだと思ったのです。「命はね、生まれて死んで、殺されて食べられて、理不尽なものさ。この私の命も、お前の命もだ。お前もスープにしたっていいんだけどね」。そう言ってふふと笑いました。そして「命は理不尽なものだっていうのに、時折吹く風がおかしなことを言うんだよ」とつぶやきます。
「なにを?」。「救いはある。永遠の命の、永遠の幸福の道がある。なんてね。ここの風は時折変な言葉をしゃべってね、本当にやっかいだ」。「おばさん、僕のいる世界はとても理不尽で残酷な世界だと思うよ。でも、ここはそんな世界を忘れてしまうほどに美しくって、本当に永遠の幸せがある気がしてしまうよ」
おばさんはスープをよそってのりぼに渡しました。「ここの風にやられちゃったんだね。ごまかされちゃいけない。本当の世界っていうのは残酷で理不尽なんだ。ここの風や景色は、私に言わせるとまやかしだね」
のりぼはスープをすすって言いました。予想外に、とってもおいしいスープでした。「ここは天国なんじゃないの?お母さんを探しているんだ。僕は」。「天国?お母さん?」。おばさんは顔をしかめました。「ここは天国なんかじゃないよ。ちょっとした休み場ではあるけどさ。あんたが探しているお母さんもここにはいやしないよ。他の人なんて、見かけやしないから」
「お楽しみですね」。ふとルビーの声がしました。暖炉の炎の中から聞こえるような不思議な響きでした。炎は赤く、血の色をしていて、ルビーの瞳を思わせました。「ほら、ここの風や炎はやっかいなんだ、こうやってしゃべるから」。そう言っておばさんは少しうれしそうに笑いました。
「ルビー、いるのなら出てきて。お母さんのところに連れて行ってよ」。のりぼは大きな声で言いました。ルビーの声はやはり暖炉の炎から響きます。「のり坊の先生はなんておっしゃっていたかしら?神様は赦(ゆる)せない罪はない。赦されないと思い込んでいるだけだ、と」。そう言うと、炎は揺らぐのをやめて静まりました。
いけにえおばさんは言いました。「幸せや赦しっていうのも残酷なもので、かわいらしいもともと幸せな子にしか訪れないもんだ。私なんかは初めから最後まで、どぶの中でどぶさらいをするような人生でしかない」。「おばさん、苦労をしたんだね」。のりぼが気遣うと、おばさんはふふと笑いました。「そうだね。悲しいことばっかりだ。人生なんて本当に、時折幸せが訪れては生きていけるんじゃないかと希望を与えてまた奪い去る」
「イエス様はいると思う?お母さんは信じていたんだ」。のりぼは聞きました。おばさんは大きくあくびをして、「あれだろ。人類の罪を贖(あがな)うために、この世界に生まれてくださった神様の御子だ。そして、信じる者には赦しと、永遠の命を与えてくださるってあれだ」。「そうそう。教会でそんな話を何回も聞いたんだ」。「いるとしても、幸せなかわいこちゃんだけを赦して幸せにしてるんだ。神だってそんなもんだよ。教会は嫌なところだね。幸せそうな人がたくさんいてさ。そういう人は救われて天国に行くんだってね。私なんている場所もないよ」とおばさんは言いました。
その時、炎からまた声が響きました。「イエス様は世界を創造し、万物を支配されているお方よ。この暖かな部屋も、イエス様からの贈り物よ。それでもイエス様に愛されていないと言うの?」。「イエス様が私のことも好きだっていうのかい?」。おばさんは不思議そうな顔で言いました。「もちろん」。炎は強く燃え上がりました。
おばさんはスープを一気に飲み干して、「やだやだ聞きたくもない。私のことなんて誰も好きじゃないんだから」と言いました。のりぼは前のめりになって「おばさん!僕けっこうおばさんが好きだよ。なんだか優しい感じがして好きだよ!」と言いました。「ありがとね。ぼうや。優しい子だね、うれしいよ」。おばさんは笑いました。
ルビーの声が響きます。「イエス様はあなたたちのような人を特別に愛するの。だからこの世界にも連れてきてくださったのよ。神様と人との奥の間の世界。・・・神様が支配する不思議な世界に・・・もちろんすべての世界を神様は支配されている。でも、人の世は人間の声が大きすぎてゆっくりと話をすることもできないでしょう。そのためにこのような領域があるのよ。人はそれを幻だとか幻覚だとか、夢だとか言うでしょう。でも、それすらもすべて神様の与えてくださるものであることを忘れないでほしいの」
「すべて支配しているなら、どんな世界であっても、人の声を鎮めて自分がしゃべればいいじゃない」と、のりぼは言いました。ルビーの声は言います。「神様はすべての人に自由を与えておられてね、どのように何をするのか、何を話すのか、すべて見つめていらっしゃる。・・・けして力づくでそれをやめさせたりしないわ。だから、悲しいことも残酷なこともたくさん起こるし、死も免れえない。けれど、神様は見つめ、そして沈黙の中でいつも私たちに語り掛け、語り掛けに応じてくれる人を待っているのよ」
「神様が僕たちの語り掛けを?」。「そうよ」。ルビーの声は炎の中から優しく響きます。「じゃあどうして、僕のお母さんを死なせたんだって言ってもいいの?」。「もちろんよ。のり坊君。人が罪を犯して、神の知恵、神の愛から離れてしまった。・・・そして、この世界には死が訪れ、誰もが死の支配を受けるようになった。それは逃れられることではないのよ。キリストを信じる素敵なお母さんにしても」
「でも、どうしてこんなに早くに!」。のりぼは叫び始めました。「早すぎるよ!」。おばさんは隣で聞きながら、うんうん、ともらい泣きをしているようです。
「そうね。早すぎるわ。でもすべてに神様の時があってね、いつか分かるわ。なぜこんなに早かったのか」。「今分からせてよ!」。そう言ってのりぼは床に突っ伏して泣きました。「まだまだお母さんとしたいことがいっぱいあった!してあげたいこともいっぱいあった!立派になろうとしたって、見てくれるお母さんがいないんでしょう!!」
ルビーの声は優しく言います。「ちゃんと見ているって、やがて分かるわ。神様が私たちの髪の毛の一本一本さえ数え、どんな些細な心の動きにも目を留められるように、天国の世界はあなた方の世界にけして無関心ではないのよ」
ルビーの声は優しく響き、のりぼもなんだかそのことを信じられるような気がしてきました。心が甘いミルクのような温かさで満たされ、暖炉の前にうずくまってのりぼはそのまま眠りました。「でも神の子が、イエス様がこの世に来たなんてやっぱり信じにくいんだよ」と、甘えるように言いながら。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。